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不思議なまるイスのお話

 チリンチリン。  小さな森の静かな朝。  家の外から聞こえてきたのは、来訪者を知らせるベルの音。  急いで向かおうとした私の鼻を、コーヒーの芳ばしい香りがかすめた。途端に襲うコーヒーの誘惑。ああ、このまま居留守でも使おうかしら。そう思わせるほど、朝のコーヒーは格別においしい。  チリンチリンチリン。 「ちょっと!いつまで待たせる気なのー!」  あ、いけない。扉の向こうの声が少し機嫌を悪くしたようなので、さすがに私は淹れたてのコーヒーをあきらめざるを得なくなった。 「今日はだいじな日なのよ。だって二人でお買い物に行くんだもの!」  私の目の前には一人の少女。少し癖のある茶色の髪をツインテールにし、跳ぶように歩く姿はどことなく幼い。服はピンクのフリル付き、背中にはうさぎのぬいぐるみ。何となく浮いているような気もするが、本人はそれが気に入っているらしい。 「……あたしの顔に何か付いてる?」 「え?あ、えっと……そういうわけじゃ」  私は慌てて首を横に振った。ああ、つい空想に浸ってしまった。少女は頬を膨らませたが、何を思ったか、すぐに手でその空気袋を押し潰した。 「ふーん……まあいいわ。それより」  そして突然満面の笑みを見せると、瞳にいくつも星をとばしながらこう言った。 「……あそこに見えるのが、あたしの夢を叶えてくれる素敵な場所なのね!?やっぱり想像通りだわ!そういうわけでエナ、あたし先に行ってるから!」  そして少女はすっかり機嫌を良くし、風のごとく走り去ってしまった。  少女が言う「素敵な場所」、それはつまり――フリーマーケット会場。  私が追いついたときには既に、少女の両手は荷物でいっぱいだった。 「あらエナ、遅かったわね。この辺りの品物は全部あたしが買っちゃったから、もう用は無いのよ。さあ、帰りましょ!」  ずいぶん強引な気もするが、それが少女の良いところでもある。根は素直で優しい子なのだ。そういうわけで仕方ない、今日はおとなしく帰ることにする。 「まったく、相変わらず強引なんだから。……まあ、アンナのそういうところが好きなんだけどね」 「ん?今何か言った?」  なんでもないわ、と言って、私はわざと寂しそうな顔をしたが、少女――アンナは全く気付く様子もなく、あさっての方向を見ていた。ちょっぴりヘコむなあ、予想はしてたけど。 「あーーー!!」 「な、何!?」  と、いきなりアンナは大声を上げて立ち止まった。最初、私はヘビでも出たのかと思った。アンナはヘビが大嫌いだからだ。ところがすぐに、アンナが何に大声を上げたのかが判明した。 「あそこ、あたしみたいに可愛いイスを売ってるわ!」  何だかツッコミたくなるが、今は気にしないでおく。  アンナが言う「あそこ」を見ると、おばあさんが小さなまるイスを抱えて座っていた。――それも、たった一人で。  私は正直気味が悪かった。おばあさんといえども、怪しい占いでもしていそうな雰囲気。品物はまるイスだけのようだし、おまけにこの場所だけ人気がない。思わず鳥肌が立つ。 「おばあちゃん、ありがたくいただくわね!」  ところがいつの間にか、アンナはまるイスを購入していた。  アンナの喜ぶ姿に、おばあさんがニタリと笑うのが見えた。それはさながら魔女のよう。私はじり、と一歩後ろに下がった。 「ちょっ、アンナ……そんな怪しいもの買って大丈夫なの?」 「いいじゃない。あたしのお金で買ったんだし」  アンナはいつになく上機嫌だ。私は実を言うとまるイスが怖かったのだが、アンナに馬鹿にされるのも嫌なので黙っていた。  当の本人はまるイスを見て、早く使ってみたいわ、とか言いながら、その場を去っていった。私もアンナの後に続いた。 「……すべては気の持ちよう次第、じゃ……」  去り際に背後から何か聞こえた気がしたが、私は聞こえないふりをして、逃げるように帰った。  小さな森の静かな朝。  私の目の前には、淹れたてのコーヒーが並々と注がれたカップが一つ。  今回ばかりは誰にも邪魔させない。そう思いながら、私はカップに口をつけた――。 「エナ!!このイス、不良品だったのよ!!毎日あたしを転ばせるのよ!」  バタン、という音とともに玄関扉が開いたと思ったら、そこにいたのは見覚えのある少女だった。服はピンクのフリル付き、背中にはうさぎのぬいぐるみ。片手にまるイス。そして怒りの形相。  毎日転ばせる?よく意味が分からないが、とりあえず話は聞いておく。 「そういうわけであなたに譲ってあげるわ。……じゃあね!返品は受け付けないわよ!」  少女――アンナは機関銃のようにまくしたてると、まるイスを私に押し付けてそそくさと帰ってしまった。  不良品?譲る?返品は受け付けない?……言葉を理解するのに少々時間がかかった。要するに、あのおばあさんは詐欺師。アンナは騙されたのだろう。そう言われてみると、なんだか妙に説得力がある。  それにしても、何が不都合だったんだろう。見たところまるイスには傷一つないし、壊れてもなさそうだ。  まあ、理由は何でもいいかな。使えそうだし、とりあえず家に置いておこう。――私は、まるイスを部屋に置いておいた。そして飲みかけのコーヒーを、今度こそ味わったのだった。  翌朝。  起きてすぐ、私はコーヒーの支度をした。今ではこれが習慣になりつつある。そして何気なく部屋を見て、昨日は無かった存在が目に留まった。  まるイス。一日経ったが、特に不良品だという感じはしない。そこで近づいてみた。 「……っ!?」  すると、突然床が迫ってきた。……と思ったら、まるイスの脚につまずいたのだった。  ツイてないなあ。そう思いつつ顔を上げた先に、なんとお札が落ちていた。思わず笑みがこぼれる。転ぶのは嫌だけど、それ以上に収穫があれば良し。そう思った。  次の日、また私はまるイスにつまずいた。ところが顔を上げると、今度は飴玉が落ちていた。  そして、次の日もまるイスにつまずいた。今度は昔なくした髪飾りが落ちていた。  不思議なことに、そうした出来事が毎日起こった。そして私はある法則に気付いた。  一日一回このまるイスにつまずくと、何か良いものが落ちている。  アンナが言っていた「毎日あたしを転ばせる」というのは、どうやらこのことだったらしい。 「エナ、最近何か良いことでもあった?」  ある天気の良い日。私はアンナに誘われて、森の中を散歩していた。  あのまるイスに出会ってから、毎日少しずつ得をした気分だ。それが顔にも表れるらしく、アンナが怪訝そうに尋ねてくる。  アンナは怒ってまるイスを手放してしまったが、転んだあとの「収穫」に気付かなかったのだろう。そのことを教えようかとも思ったが、やっぱりやめておいた。  私だけの秘密、不思議なまるイスのお話は、そっと胸にしまっておこう。 「いいえ?別に何もないわ」 「えー、だって顔が笑ってるじゃない!」  アンナの言葉を受け流しながら、私はまるイスをこれからも大切にしようと誓った。