ナギの海
小さいころ、私はウミガメの物語を絵本で読んだ。
穏やかな、海の守り神。そう書いてあった気がする。
大きくて、優しくて、温かくて――。私にとってウミガメは憧れの対象だった。
同年代の他の女の子たちに言うと笑われるから、黙ってはいるけど。
たった一度だけ会ったきりで、そう簡単に会えるものではないことも知っていた。
それでも、やっぱり心のどこかで期待していて。
ウミガメに会いたい一心で、一年のほとんどを、この小さな海で過ごしている。
木枯らしが吹く、急に寒くなった秋の終わり。
どこか遠い北国では雪が降ったのだという。
そんな寒い日だったが、私は相変わらず今日も海にいた。予想はしていたけど、他に人影はない。
ほとんど音の無い空間。
聞こえるものと言えば、海鳥の鳴き声と、時々やって来るフェリーの音くらい。
凪の海は静かに輝き、頭上には雲一つ無い青空が広がっている。
でも、そんな空を映しているはずの海は、それとは対照的に青く濁っていた。ダークブルー。そう形容するのに相応しい色だろうか。
私は特にすることも無いので、ただその水面を見つめていた。
それから一体、どれほどの時間が経ったのかは分からない。
さすがに飽き始めてきたころ、突然、目の前の水面に変化が起こった。
波紋だ。
丸い水の輪は大きくなっては消え、また生まれ、しばらくの間は誕生と消滅を繰り返していた。
そして再び水面が静かになったとき、その中心には黒い影が浮かんでいた。
私は適当にその辺にあった小石を拾うと、そこへめがけて投げてみた。
小石は見事に命中し、それから鈍い音を立てて海に沈んでいった。
それでも黒い影は動かない。
――ずいぶん石頭な生き物なのね。
そんな勝手な考えをめぐらせながら、私は何かが起こるのを期待して、再び水面を眺めた。
すると、どこからか声が聞こえてきた。
「いきなり石投げてくるなんて、危ないなあ」
ふぇ!?
……思わず間抜けな声が出てしまったほど、それはあまりに唐突だった。
私が目を丸くしていると、「声」はまた話しかけてきた。
「まあ、別に気にしてないけどね。それよりさ、君、こんな所に何しに来たの?」
私は動揺していた。男とも女とも分からない、大人とも子供とも分からない不思議な声。それが今、私に語りかけている。
ああ、そうか。あくまでこれは推測だけど、「声」の主はそこに浮かんでいる黒い影だ。
ということは、魚が喋っている?
……そんなはずないか。冷静になって考えてみると、これでは私が空想家だと思われても仕方がない。
ところが、その空想は現実となる。
「もしもーし。……人の話聞いてる?」
「ウミガメを探しに来たのよ」
この時の私の声は、たぶん早口で上ずっていただろう。
結局私は「声」の存在を認め、そしてその質問に答えていた。
「声」はふーん、と納得すると、そのまま黙り込んだ。
それから少し時間が過ぎたころ、最初に沈黙を破ったのもまた、「声」だった。
「ずっと待つ気?ウミガメを」
当たり前じゃない。私はそう言った。
「へぇー。でも、この海にウミガメはいないよ」
まるで何でもないことのような、軽い言葉。
それはやけに冷たく響き、残酷にも、私の心を突き刺した。
……いや、こう言うと少し語弊がある。
本当は私も、最初から分かっていた。
この海にウミガメはいないと。
この海は底が見えないほど深く、暗く、青く、濁っている。
そんな海だから、ウミガメが棲めるはずもない。言われなくても分かっていた。ウミガメの存在を知ったそのときから。
「それでも待つのは、何か意味があるから?」
そんな無機質な響き。
それでも私は臆したりなんかしない。
「意味?私は自分のしたい様にしてるだけ。これからもここで、ずっと待ってる」
例えウミガメがこの海にいなくても、ね。そう付け足して、青く濁った海を見た。
私がウミガメを待つ理由。
小さいころに。この海で溺れかけた私を助けてくれたことがあったから。何か恩返しがしたい。
それが最初で最後のウミガメとの出会いだった。
あのときは海も綺麗で、水中で目を開けるとウミガメの姿がはっきりと見えた。
「なんで濁っちゃったんだろうね、この海」
今度は私が「声」に尋ねた。
少しの沈黙の後、返ってきたのは思いもよらない言葉だった。
「ほら、人だって落ち込んで暗くなることあるじゃん?……それと同じだよ、きっと」
「人が落ち込むのと同じ」。
科学的な根拠はない。でも、妙に納得できる。
ああ、それもそうか。「声」はこの海に棲む生き物なんだから。この海については、誰よりも知ってる。
「いつかここに、ウミガメが来ると思う?」
また少し時間が経って、「声」はこう尋ねてきた。
私の答えは……イエス。
かつては青く透明だった海。いつかこの海から濁りが消えたとき、ウミガメはまた戻ってくる。そう思うから。
暗い海に光が現れるまで、私はここで待っていよう。
そう、いつになるかは分からないけど。
きっと、待ってみせる。
「当たり前じゃない」
私はさっき「声」に言った言葉を、全く同じ言葉を、返事に使った。
空と同じように赤く染まり始めた海に、微笑んでいる自分の顔が映っていた。
「声」はふーん、と頷くと、突然こう切りだした。
「じゃあ、最後の質問。君の名前は?」
意外な質問に私は思わず息を呑んだ。
私の名前。
こうやって、人に訊かれたのは何年ぶりだろうか。
「ナギ、だよ」
由来は「凪」。風のない静かな状態を意味する。
呟いた私の目に、鮮やかな夕凪の赤い海が映った。
「そっか。……うん、良い名前じゃん」
いい名前、か。
そんな風に言われたのも、だいぶ前だったかな。自然と笑みがこぼれる。
「声」が褒めてくれたと思ったら、今度は突然こう言った。
「相手してくれてありがとね。じゃあ、もう帰るよ」
急すぎる展開。
まだ話したいことはたくさんあるけど、水面には波紋が起こり始めていた。
そのとき、私は見た。
何かの拍子に水面に出た「影」の一部が、硬く光ったところを。
甲羅のようにも見えた。
まさか……?
「ねえ君、ウミガメなの?」
一瞬だったけど、私の目にはそう映った。
その生き物は動きを止めると、相変わらず何を考えているのか分からないような声で、こう言った。
「さあね。でも、君がそう思うなら、……きっとそうだよ」
あれから一年。
あの生き物が本当にウミガメだったのかどうかは、分からない。
でも、あれはきっとウミガメだ。少なくとも、私がそう思っている限りでは。
そして今、目の前の海は、青空と同じ綺麗な色を映している。
――海、元気になったみたいだよ。
頬を、少し冷たい潮風が撫でた。
ウミガメ、また会えるかな。
