小説
なんとなく立ち寄ったとある国の辺境の教会で、久しぶりに見知った顔を見つけて、思わず駆け寄った。
「久しぶり、ルナ」
「キルシュ!」
呼びかけに振り返った少女ルナは、ぱあっと花咲くように顔を綻ばせた。ルナは長い栗色の髪をゆるりと下ろし、若草色を主体とした聖職者らしい装いに身を包んでいた。確か前に会ったときも似たような格好をしていた気がする。ということはあれ以来そんなに生活スタイルを変えていないし、なんならずっとこの国で暮らしているのだろう。特定の拠点を持たず各地を転々としている自分とは対称的な生き方だなとキルシュは思った。
「元気にしてた?何年ぶりかしら、えーと……二十年は経ってなかったよね?」
「うん。十四か五年ぶりってとこかな。その格好、シスターの暮らしがよっぽど気に入ったの?」
「ふふ。そうねえ、気に入ったというか、辞める理由がないから続けてるだけなんだけど……言われてみればそうかもね。ここは性格の穏やかな人間が多いし、自然豊かで衣食住に困らないもの、良いところだと思ってるわ。それで、キルシュは?今も商人やってるの?」
「そ。おれの性格上、一つのところに留まるってのはどうも性に合わなくてさ。世界中飛び回って商売する方が面白いし、向いてるんだと思ってる。……どう?せっかくだしちょっと見てかない?今ならまけといてあげるよ」
キルシュは鞄から珍しい品々を取り出しながら、へらりと悪戯っぽく笑った。半分冗談、半分はルナに自分の見てきた世界の片鱗を見せてあげたい気持ちだ。普通の人間相手なら高値で売りつけてやるところだが、まさかルナ相手にそんなことをするつもりは微塵もない。
「いろんな品物があるのね。このよく分からない土偶?みたいなものも人間の中ではきっとものすごい価値ある物なんでしょう?こういうのも見逃さないできちんと目利きできるなんて、さすがキルシュね」
「……褒めてもなんも出ないよ?」
怒鳴られたり無茶な値切り交渉をされることも日常茶飯事のキルシュにとって、真正面から面と向かってこういうことを言われるとなんともむず痒い。しかも相手がルナなら、なおさら。ルナが今更自分を煽ててどうにかしようなどと思うはずがないことくらい、キルシュは分かっていた。変な風に顔が緩みそうになるのをぐっと堪えて、鞄の中から他の品物を出してやった。よく分からない土偶なんかじゃなくて、ルナに見せたい物はまだまだたくさんあるのだ。
「違うってば、そんなんじゃないの。だって私には絶対できないもの、単にすごいなあって思ったから口にしただけ。……あら、この宝石なんてすごく綺麗ね。これは……いくらするの?」
ルナは興味津々、手にした宝石とキルシュを交互にチラチラと見ている。キルシュは内心にやりとした。ルナが絶対気にいるだろうと思って鞄に忍ばせておいた甲斐があった。柔らかな翡翠色の宝石は、ルナの瞳によく似ている。どこでいつ手に入れたのかも忘れたが、ただの成金相手に手放すのはなんだか惜しくて、どんなに好条件を突きつけられても全て断ってきた品だった。
「あげるよ。再会記念ってことで」
「え?ごめんなさい、気を遣わせちゃった……?ちゃんとお代は払うから、えっと」
「いいって。元々ルナからお金貰おうだなんて思ってないし、おれには必要ない物だからさ。持っていきなよ」
「ほんと?じゃあお言葉に甘えようかな。ありがとう!大切にするね」
ルナは嬉しそうに笑った。その表情は前に会ったときから何も変わっていなくて、キルシュは安堵した。たかが十年ちょっと離れていただけだが、それでも何かの拍子に価値観や思想が一変することだってあり得るのだから。ルナに限ってそんなことはないだろうと思ってはいたが、万一を考えて密かに心配していたのだった。世界を巡る中で、人間の汚い部分にも嫌というほど触れてきたキルシュとは違って、ルナは未だ人間を清い生き物としか認識していない。それで良い。それでルナが幸せなら、都合良く切り取った綺麗な部分だけをこれからも見せ続ければ良いのだ。
「ねえ、旅のお話、聞かせてよ。珍しい景色とか変わった街並みとか、人との出会いとか……いろいろ、あるでしょ?」
「そりゃあもう、たくさんあるよ。どっから話そっかな。長くなるけど、いい?」
それから二人は木陰に腰掛けて会話を楽しんだ。職業柄、あまり他人に深入りしない癖がついているキルシュにとって、こんなに喋ったのは久しぶりだった。
「そういえば、旅先で他の神獣には出会わなかった?私、実は今まであんまり同族に出会ったことがないんだよね。だから気になってるの」
「おれたち神獣って絶対数が少ないからなあ。おれもあんまり見かけなかったよ。あ、でも……いるにはいたかも。気配感じたくらい、かな。そもそもおれたちみたいに人の世に溶け込んで生活してる奴の方が少数派で、小動物なんかに化けて単独でひっそり暮らしてるパターンの方が多数派らしいからな。神獣同士出会ったとしても互いに干渉しないのが普通なんだとさ。あ、干渉しないってのは、相手の本質に踏み込まないってことね」
「そうなの?本質に踏み込まない、か……触れられたくない部分に触れちゃダメってことだよね。あれ、じゃあ私たちが今こうやって話してるのは、いいの?私はキルシュに触れられて困るようなことなんてないからいいんだけど、知らない間にあなたの嫌がるようなことしてたら嫌だな」
そういうところだよ、とキルシュは後ろ頭を掻いた。同族だからという以前にキルシュはルナ個人のことを好いているし、信頼もしている。神獣としては『例外』の存在になってまで人の姿で過ごしているのも、単なる気まぐれではなく、ルナが人間を通して見ている世界と同じものを自分も見てみたいと思ったからだった。もちろんこのことはルナには秘密なのだけれど。言ってみればルナの存在はキルシュの生き方に絶大な影響を与えているのだから、今更拒むなんて考えられないし、そうしたいとも思わなかった。
「……さらっととんでもないこと言うね。ルナとはもう長い付き合いだし、おれも別に触れられて困るようなことなんかないよ。だから心配しなくていい。おれらはおれらで、これからも仲良くやってこうぜ」
キルシュはしばらくこの国で商売をすることにして、時々教会にルナの様子を見にいった。ルナと話していると話題が尽きない。さすがに互いに本業があるので毎日というわけにはいかないものの、数日置きにキルシュがふらりとルナのもとへ立ち寄るような生活が続いた。ルナはいつ訪れても変わらず歓迎してくれた。
初めこそ鳴かず飛ばすだった商売がなんとか軌道に乗り始めると、思いの外忙しくて教会へ行く足が遠のいた。一段落したらまたルナに会いに行こうと思いながらもなかなかその時は訪れず、ようやく休暇を取った頃には最後にルナと会ってから三ヶ月が経っていた。
「あら?キルシュ!しばらく見ないから、てっきり他の国に旅立ってしまったのかと思ったわ」
教会の前でしゃがんで花壇に水を撒いていたルナは、キルシュの姿を見かけると冗談めかして笑った。いつもと変わらない穏やかな笑顔。その中に一瞬、キルシュは僅かに違和感を覚えた。いや、でも。思い過ごしか?と考える。
「少し前においしい焼菓子が手に入ったの。一人じゃ食べきれないから、手伝ってくれる?」
「ん、そういうことなら、ご馳走になろうかな。最近繁盛しすぎてさ、ゆっくり休みたかったんだよね。助かるよ」
「ふふ。だと思った。キルシュって甘いの好きだったよね?持ってくるから待ってて!」
そう言って勢いよく立ち上がったルナだったが、急にふらりとよろめくと、まるで糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちそうになった。寸前で抱き留めてなんとか事なきを得たものの、ルナの顔色は真っ青だった。
「あ……」
「ルナ?具合悪いのか?」
キルシュの腕の中で朦朧としていたルナだったが、呼びかけにハッとした表情で顔を上げると、キルシュの手を借りてゆっくりと体を起こした。
「ううん、ありがとう……大丈夫。少し立ちくらみしただけだから。私もそろそろ年かしら?」
「馬鹿言うなよ。おれの方が年上だろ?そのおれがピンピンしてんだから年関係ないって。……そんなことより、ちゃんと飯食って寝といた方がいい。ほら、ポーションわけてやるから」
そんな大げさよ、と苦笑するルナに半ば強引にポーションを押し付けると、ルナはしぶしぶ受け取って礼を言った。不服そうだが、この際どう思われても関係ないと割り切った。ルナは特に生命力の強い地属性の神獣だから、ちょっとやそっとのことで体調を崩すはずがない。だから目に見えて顔色が悪いとなると、本人が自覚している以上に身体に負荷がかかっているのだ。
「また様子見に来るから。仕事はほどほどにして休めよ。あ、なんかいるもんある?次来るときに調達してくるけど」
「ええ、せっかくお茶にしようと思ってたのに。もう行っちゃうの?」
「おまえなあ。焼菓子は逃げないしおれも逃げないんだから、そんな顔してないでしっかり休めよ」
ヘソを曲げているルナを宥めるようにくしゃくしゃと軽く頭を撫でてやれば、ルナはようやく観念したように大人しくなって自室に帰って行った。それでいい。あのポーションも伊達じゃないから、あれを飲んで丸一日休息を取りさえすればそれなりに効くだろう。また来るから、とルナの背中に声をかけて、キルシュも教会を後にした。
次に教会を訪れたとき、ルナの姿がなかった。大抵の場合ルナは花に水をやっているか、井戸水を汲んでいるか、とにかく外に出ていることが多いのだが、今日はどこにも見当たらない。教会の中で仕事中となればさすがに邪魔するのも気が引けるので、一旦出直そうかどうしようかと考えていると、背後からもしもし、と話しかけられた。振り向くと、この教会で働く神父らしき男性がこちらを見て穏やかに微笑んでいた。
「ルクレチアーナ様でしたら、少し体調が優れないご様子でして。今日は自室でお休みになられていますよ。会いにいらしたのでしょう?」
物腰丁寧で柔らかな雰囲気の神父だが、何故だかキルシュは形容し難い嫌悪感を覚えた。そしてすぐにその理由に気付く。ああ、そうか。この男、人間相手に商売するときの自分と同じ顔をしているのだ。隙のない貼り付けたような笑顔の裏に、悟られたくない何かを隠しているような、そんな顔。一体何をそんなに隠したいのだろうか。キルシュは警戒心を隠すそびれもなく、神父に冷たく言い放った。
「ああ、うん。そうだけど。……そっか、なら仕方ないね。医者には見せた?」
「ご心配には及びません。ルクレチアーナ様は神の力をその身に宿されたお方ですから、下手に我々人間が治療を施すよりも、ご自身の治癒力に任せた方が早く良くなるかと」
キルシュは目を丸くした。神父は相変わらず笑顔のままだ。
「へえ、ルナのこと知ってたんだ。じゃ、おれの正体も知ってる?」
「もちろんでございます。あなた様も神獣のお一人。我々人間にとって最も尊ぶべき存在でございます」
「……で、おれに何の用?それだけじゃないんでしょ、言いたいことは」
気味が悪い。あからさまに嫌悪感を露わにし続けているにも関わらず一切動じる気配のない神父に、キルシュは苛立ちを募らせていく。すると神父は待ってましたと言わんばかりに猫撫で声で語りかけてきた。
「あなた様の血を、ほんの少し分けていただきたいのです。神獣の血には神の力が宿っておりますから、研究が進めば例えば不治の病を治癒することにも繋がるかもしれません。人類の発展のため、ぜひともお力をお貸しいただけないでしょうか」
何かが引っかかる。病の治療だの人類の発展だのはきっと建前で、どうせ真意はもっと別のところにある。キルシュは眉を顰めた。
「なるほどね。そうやってルナを言いくるめたんだ。……全然少量じゃないじゃん。ルナが貧血になってぶっ倒れるほどの量ってよっぽどなんだけど?」
神父の笑顔が一瞬揺れて、ピクリと眉が動くのが見えた。
「言いくるめた、というのは心外でございます。ルクレチアーナ様が自ら望んで協力してくださったのですから。神獣の体質は我々人間にとっては未知なるもの。加減が分からぬものですから、ルクレチアーナ様のご厚意のままに頂戴したところ、このような事態となったのでございます。我々としても心を痛めているのですよ」
「……」
要するに自分たちは悪くないとでも言いたいのだろう。おそらくそれがこの神父の本心だ。ルナを心配しているようでいて実のところは保身に塗れた台詞を、よくもいけしゃあしゃあと吐けるものだなとキルシュは冷ややかな視線を送った。
「もちろん今後はこのようなことが起きぬよう、徹底した管理を実施いたしますのでご安心ください。キルシュ様、いかがでしょう?我々人類のため、あなた様にもどうかご協力を……」
「おれはやんないよ。そこ通して、ルナに会いに行くから」
キルシュは吐き捨てるようにそれだけ言うと、まだ何か喚いている神父を無視して教会の中へ入っていった。久々に嫌な物を見た。この後どんな顔で何をルナに言えば良いのだろう。答えは出ないまま、気付けばルナのいる部屋の前に辿り着いていた。
「キルシュ?どうしてここに……ああもしかして、心配して来てくれたのね」
キルシュが訪ねると、ルナはベッドから上半身だけ起こして本を読んでいるところだった。ルナは本をサイドテーブルに戻し、驚いたような顔でキルシュを見つめた。血の気がなかった頬も今はほんのり赤みをさしていて、前に倒れたときに比べれば良くなっているのは間違いない。それでも元々色白な肌はさらに白く儚く見えて、病的な美しさにキルシュは怖くなった。
「うん、まあ、そんなとこ。思ったより元気そうで良かった」
嘘はついていない。キルシュは適当な椅子を引っ張ってきてベッドサイドに置くと、ルナの近くに腰かけてそっと頭を撫でた。温かい。キルシュは細く息を吐いて一旦は安堵した。
「私なら平気よ?今だって大事をとって寝ているだけで、大したことは……」
「外にいた神父に聞いたよ。血を、人間に、分けたんだって?」
笑って誤魔化そうとするルナの言葉を遮り、一音ずつ確かめるように問うた。弱っているところをさらに追い討ちかけるような真似はしたくなかったから、できるだけ威圧的にならないように、静かに、諭すように。けれどいくらルナ相手とはいえども許せないことはあって、言葉の節々にうっすら怒りが滲んだ。ルナは無垢だ。種族の垣根を超えて皆仲良くなれると本気で思っていて、与えた分だけ返ってくる心も温かいものしかないのだと信じて疑わない。というか、それ以外の汚い部分に触れたことがないから分からないのだ。分からなくて良いと、知らなくて良いとルナの両目を塞いでおきながら、いざ傷付いているのを目の当たりにしてみれば、なんで見え透いた罠に嵌るんだと身勝手に腹を立てている自分に対してもキルシュは苛立っていた。
ルナはキルシュのいつもと違う雰囲気を察したのか、軽口を叩くのを辞めて静かにキルシュの顔を窺った。新緑色の瞳が何かに迷ったように揺れている。それから少しの沈黙が流れた後、ようやくルナは躊躇いがちに口を開いた。
「人間の役に立てるって聞いたの。私の血があれば今まで救えなかった病気の人たちも救えるようになるかもしれないって……」
「仮にそうだとしてもさ、ルナが倒れてまでやらなきゃいけないこと?」
「それは……もちろん、加減はしなくちゃいけないけど。人間のことは好きだから、力になれるのならなんだって構わないわ。それに私の治癒力が高いの、キルシュも知ってるでしょう?だから心配しないで。次からは気をつけるから」
「そうは言っても、あいつら搾取するだけして何の見返りもよこさないじゃないか。あの神父だってどこまで本当のこと言ってんだか……」
「キルシュ」
温厚なルナにしては珍しく、咎めるようにキルシュの名を呼んだ。
「私たち神獣の使命は、この世界を作りし神の代わりとなって、生きとし生けるものを守り、安寧と繁栄に導くこと、だったよね。だから私はやるべきことをしているだけよ。……キルシュ、あなたは違うの?」
「おれは……」
二人がこの世に生まれ落ちてから、千年以上の時が経っている。世界中のどこを見渡してもこんなに長命な種族は他にいない。神獣は生まれながらにして神に見初められ、力を得る代わりに寿命はあってないようなものとなった。
使命、とルナは言うが、そんな力をくれと頼んだ覚えはないのに、勝手に与えたのは神の方だ、とさえキルシュは思う。長く生きてきたことによる恩恵ももちろんあるが、それ以上にどうやっても他の生物と同じ時間を歩むことは不可能という事実にキルシュはずっと心を痛めていた。ルナの言う通り守るべき心の清い人間も確かに存在する。けどそういう奴らだって、結局は皆例外なくキルシュを置いて土に還っていく。せめて、と墓に手を合わせることもしたが、そのうち心無い人間によって踏み荒らされたり壊されたりもした。いつもこの繰り返しでキルシュは良い加減に辟易していた。無条件に全ての人間を守ってやる価値があるとは、到底思えなかった。
「おれだって、できることならそうしたいさ。けど無理だ。おれたちに犠牲を強いてまで繁栄を願うような奴らまで、なんで守ってやらなくちゃならない?なんで手を貸してやんなきゃならないんだ」
「そんな、話が飛躍しすぎだわ。酷いことする人間なんてほんの一握りよ。人間たちのことを悪く言わないで」
ルナの瞳の奥に悲しみの色が宿るのを見た。泣きたいのはこっちだというのに。伝わらないもどかしさから、とうとうキルシュは声を荒げてしまった。
「ああもう、ルナ。なんで分かんないかなあ。おまえが優しいのは分かってる、けど自分のことも大事にしろって!見てらんないんだよ!」
ルナはびくりと肩を震わせたが、それからすぐにムッとした顔で言い返してきた。ルナにはルナの価値観があるのは当然で、言われっぱなしというわけにもいかないのだろう。
「だから私は大丈夫だって、ずっと言ってるじゃない!どうしてそんなに人間のことを嫌うの?私は人間を信じたいの。好きにさせてよ!」
両者一歩も譲るつもりがないのは明白だった。気まずい沈黙が続く。先に静寂を破ったのはルナの方だった。
「これ以上あなたと話して喧嘩したくない。ごめんなさい……悪いけど、一人にさせてくれる?」
「……」
ルナは悲しそうに目を伏せて、いつも通りの穏やかな口調でそう言った。怒鳴るんじゃなかったと、傷口に塩を塗るような真似をしてしまったことをキルシュは悔いた。けれどルナの言う通り、このままでは話は並行線を辿るのみで、また口論になるだけだろう。キルシュとてそれは望んでいなかった。
「分かった。じゃ、もう行くね。……お大事に、ルナ」
ごめん、ともまた来るよ、とも言えず、キルシュはただ部屋を出ていくしかなかった。ルナの返事を待たずに扉を後ろ手で閉めて、部屋から遠ざかっていく。ルナの見せた悲しい顔が目に焼きついて離れなかった。
悪いように考えすぎなのかもしれない。もしかしたらあの神父たちは本当に皆の幸せを考えていて、今回のこともたまたま上手くいかなかっただけなのかもしれない。いや、でも……。歩きながら、キルシュはぐるぐると思い詰めていた。何が正しいのか分からない。分からないけれど、ただ一つはっきりしているのは、ルナの幸せを願っているということだ。険悪な雰囲気になってしまった手前、しばらくはそっとしておいた方が良いだろう。ほとぼりが冷めたらまた様子を見に行って、今回のことを詫びて、ルナが好きな焼菓子でもお土産に持っていこうか。そう結論づけることにしてキルシュは心を鎮めた。しかし嫌な予感というのは当たる物で、すぐにルナの元へ戻らなかったことをキルシュは後悔することになるのだった。
次にキルシュがこの国を訪れたとき、凄惨な光景が広がっていた。
「は、なんだよ……これ……?」
逃げ惑う人々、悲鳴と怒号、あちこちから立ち昇る真っ黒な煙と炎。緑豊かで美しかった国は、瓦礫と何かの肉片と赤黒い液体とで見る影もなく変容していた。何が起きているのかは分からないが、考えるよりも先に体が動いた。キルシュは国の外へ逃げようとする群衆とは真逆の方向へと駆けていく。すると間もなくして異形の怪物たちがどこからともなく現れて、行く手を阻むようにキルシュを取り囲んだ。見たことがない生物だ。いや、もはや生物としての自我があるのかどうかも怪しい。まるで壊れた殺戮兵器のように、目に映るもの全てを破壊して回らねば気が済まない、というかそれが本望なのだろう。キルシュは護身用に身につけていた短剣を引き抜きながら、奇声をあげて襲いかかろうとしてくる彼らに焦点を合わせて――そして唖然とした。だって、彼らは。
「……っ、おまえら……!聞け、まだ人としての意識が残ってんなら、目ぇ覚せ!簡単に人間辞めてんじゃねえよ!!」
キルシュには分かる。もはや原型を留めていないけれど、その醜い肉体の中に宿っているのは、紛れもなく人間の魂で。どうにかして呼び戻そうと必死に叫ぶも届かず、何がそうさせるのか、彼らは虚ろな瞳のままキルシュの首をへし折ろうと全速力で突っ込んできた。ダメだ。話が通じる相手ではない。キルシュは唇を噛みながら、その場で思い切り跳躍して攻撃を避けると、そのまま落下の勢いに任せて短剣を振りかざし、巨体の肩から腰までを真っ二つに引き裂いた。一瞬だった。神獣の力は伊達ではないから、このくらいの戦闘など造作もないのだが、心臓がバクバクと音を立ててうるさくて、キルシュは顔を歪めた。それでもやるしかない。ここで立ち止まっていてはいけないと、無理やり心を奮い立たせてキルシュは迫りくる魔物を残らず薙ぎ倒していく。
そうしてたくさんの血を見ながら辿り着いた教会は、そこだけ切り取ったかのように静かで何の音もしなかった。ただいつもと違うのは、ルナが大事に育てている花壇の花たちが軒並み枯れたまま放置されていることくらいだろうか。意を決して教会の扉を開け、中に入る。いつもなら小綺麗に整理整頓されているはずの室内はまるで強盗が押し入った後のようにぐちゃぐちゃで酷い有様だった。散乱する本、何かに叩きつけられたようにへこんだ机、割れたステンドグラスの破片。しかしそんなことはどうでもよかった。キルシュにとって意味があるのはただ一つ。よく知る色の魔力の微かな気配を追って地下室へ向かうと、血溜まりの中、鎖に繋がれて傷だらけのルナが細く息をしていた。
「ごめん、こんなになるまで気付いてやれなくて……ごめん、本当に、ごめん……!」
誰のものかも分からない血で汚れるのも構わず、キルシュはルナを抱き寄せた。大丈夫だ、まだ温かい。どくんどくんと心臓の鼓動が聞こえてくる。キルシュは手をそっとルナの頬に添えると、目を閉じて念じた。魔法はあまり得意じゃないのだけれど、今日ばかりは何に代えても絶対に成功させなくちゃいけないから。精神を集中させ、キルシュの中の魔力をありったけかき集めて必死に注ぎ込んだ。さすがに腐っても神獣、多少の精神のブレは膨大な魔力量でカバーできたようで、金色の柔らかな光が手から溢れ落ちると瞬く間にルナの傷を癒していった。そして固く閉じられていたルナの瞼が、ゆっくりと開いていく。
「……キルシュの言う通り、だった……わ、わた、私がっ、あの人たちを信じたり……血を、あげたりなんかしなければ……こんな、こんなことには……」
「落ち着け。ルナのせいじゃない」
「で、でもっ……わ、わたし……取り返しの、つかないことを……!」
怯えるルナを抱きしめて優しく背中を撫でてやると、ルナは小刻みに震えながらポロポロと涙を溢した。よほど酷い目に遭ったのだろう、いつもの穏やかなルナからは程遠く、小さな子どものように泣きじゃくってキルシュに縋った。しばらく身を寄せ合って少し落ち着いたのか、ルナは今にも消え入りそうな声で少しずつ語り始めた。
「……初めは本当に治療薬の研究をしていたらしいの。でも……そのうち、みんなおかしくなっていった。私の血を飲めば、永遠の美貌が手に入るとか、不老不死になれるだとか。そんな噂が立ち始めて、気づいたときにはもう遅かった。私の血を何の加工もせずにそのまま飲んだ人たちは、確かに望む力を得たかもしれないけれど、身に余るほどの力を制御できるはずもなくて、その場で血を吐いて死んでしまうか、気が狂って人ならざるものに成り果てた……もうやめて、おしまいにして、って言ったけど、誰も聞いてくれなくて……血を取られすぎて動けないのに、私が逃げ出さないようにって、こんなところに鎖で繋がれたの。それからはずっと、ここで見ていることしかできなくて……こんなことのために協力したんじゃないのに……!」
「……ルナ。よく耐えた。今は何も考えるな。これからのことは、後で一緒に考えよう。それで、いいだろ……」
何を言ってもルナの心をさらに抉ってしまうような気がして、慰めの言葉も見つからなかった。裏切られた挙句の果てに自分のせいで人を魔物に変えてしまったと知れば、人間を信じてきたルナにとっては想像を絶する苦痛だろう。割れた花瓶が元の形に戻らないように、一度壊れてしまった心は治せない。輝きに満ちていた新緑の瞳が、今は暗く深い闇の底に沈んでいるようだった。
「たくさん、死んだわ。無関係の人たちも大勢巻き込んだ。この血のせいで……」
ルナは突然キルシュを突き飛ばすと、短剣を奪い取り、震える手でそれを自分の首に突きつけた。
「ばっ……何してんだ!」
予想外の動きに反応が遅れた。ルナが何をしようとしているのか瞬時に悟ったキルシュは、それだけは絶対にさせまいと叫ぶ。
「お願い、止めないで……これ以上、こんな世界見たくないの。もう、何もかもいや。この先ずっと苦しんで生きていくくらいなら、今ここで死んだ方がマシよ!」
「ルナっ!」
びくり、とルナの肩が震えて一瞬動きが止まったのをキルシュは見逃さなかった。素早く懐に入り込むとルナの手から短剣を叩き落とし、明後日の方向へとぶん投げてどうにか最悪の事態を回避した。捨て身で動いたせいでキルシュの手も刃で抉れて血が流れたが、不思議と痛みは感じない。ルナが無事でいてくれるのなら、この身がどうなろうと構わなかった。涙目で硬直しているルナをもう一度ふわりと包み込むと、キルシュは耳元でそっと囁いた。
「分かった、分かったから。苦しまなくて済む方法、他にもあるから……だからそんな、変な気を起こすな。自暴自棄になって、命を捨てようだなんて考えるなよ」
「ごめん、ごめんなさい……助けてくれるの……?」
「うん。ルナの中から、辛い記憶を取り除いてあげる。やったことないから上手くいくかどうかは分かんないけど……それでも、死んじゃうよりかは、ずっとマシだ」
旅のどこかで耳にした、忘却魔法。本当はそんな都合の良い魔法なんてキルシュには扱えない。対象の記憶を部分的に選択して消してやるとなると、それこそ熟練の賢者でもない限り不可能な芸道だ。それでも、キルシュはルナを安心させるように手を取って、目を見て笑いかけた。大丈夫だから、と呟くと、ルナはこくり、と素直に首を縦に振った。
「ありがとう、キルシュ……」
ルナの瞳に僅かな希望の光が灯ったのを見て、キルシュはほんの少しだけあった迷いを振り切って、静かに詠唱を始めた。心を落ち着かせ、ルナの額に触れた掌に魔力を集中させる。やがてルナが穏やかな表情で眠りにつくと、ようやくキルシュは安堵した。次に目を覚ましたとき、キルシュのことは忘れてしまうのだろうけれど。それでも詠唱は辞めなかった。元気に笑っていてくれるなら、それでいい。必ずしも自分が側にいてやらなくても、ルナが幸せならそれでいいのだと、自分に言い聞かせながら。
「おわった、よ」
おおよそ千年分の思いの丈はついに伝えないまま、とうとう完遂した。慣れない魔法を使い過ぎたからか頭が酷く割れるように痛い。涙と一緒に乾いた笑みが出て、今頃になって全身いろんなところが痛んだ。
これからどうしようか、とキルシュは考える。記憶を真っ新にして生まれ変わったルナが最初に目にする光景がこんな惨状であって良いはずがない。ルナは人の温もりの中で笑っているのが似合う。とすれば、人間のことを良く思わないキルシュが側にいるのは違う。このまま自分の側に縛り付けて辛い記憶を呼び覚ましてしまうくらいなら、二度と関わらない道を選んだ方が良い。
「……おやすみ、ルナ」
眠るルナの額にそっと口付けて、覚悟を決めた。あとは簡単だ。どこか遠くの町にでも連れて行って、新しい人生を歩んでもらえばいい。その前に、キルシュにはまだやることがある。いつからそこにいたのか、コツコツと近づいてくる足音を背中で捉えて、キルシュはゆっくりと立ち上がる。
「困りますねえ、勝手に抜け出されては。まだ研究は始まったばかりなのです。どうかそのまま、我らと共に」
振り返ることすらせずに、キルシュは声の主に向かって短剣を鋭く放った。もちろん当てるつもりで。短剣は真っ直ぐ飛んでいき、思惑通りに神父の脇腹に突き刺さって汚い血飛沫を辺りに撒き散らした。
「もう、いいよ。つかれた」
「ぐはっ……き、貴様っ!こんなことして、タダですむと思うなぁっ……!?」
もう一本、隠し持っていた短剣をなんの躊躇もなく神父の心臓目掛けて突き立てる。華奢な体格のキルシュがまさか飛びかかってくるとは思わなかったのか、油断した神父は剣を避けることもできずに容易くその身を貫かれた。ぎゃっ、と短い断末魔が聞こえて、やがて静かになる。あまりにも呆気ない最期だ。どうせなら爪の一枚や二枚剥いでやれば良かったと思ったが、これ以上関わりたくもないのでまあいいか、と気を取り直した。
「やっぱりそっちが本性なんじゃん」
キルシュは動かなくなった神父を汚いものを見るかのように見下ろしながら、はは、と短く嘲笑した。
「最初っからこうしてれば良かった、ね」
キルシュは事切れた神父にゆらりと近づくと、その首を刎ねて蹴飛ばした。
「……おれは、おまえたち人間を許さない」
キルシュの真っ赤な瞳がギラリと光った。この国から人間を抹殺してやる。それから支配者となった暁には、ここを人ならざる者のための楽園に作り替えるのだ。人間は誰一人としてこの国に近寄らせない。憎しみや悲しみは全部、自分が貰い受ける覚悟はできているから、たとえ最愛の人と袂を分つことになろうとも構わない。二度と悲しい思いをする同胞たちを産まないために。そして、ルナの笑顔を守るために。
その日、地の国ドルアードは滅亡した。
少女の行方は、誰も知らない。