4.空飛ぶシチュー
家から学校まで歩いて十分ちょっと。朝の登校時間中、その日は歩道の隅に小さなカニが歩いていた。川が近いからかときどき見かける光景で、いつもなら特に何の感想も抱かず素通りするのだけれど、これもミケに話したら喜ぶだろうな、と思うと、突然ただのカニがすごくおもしろいもののように目に映った。
ここ最近で分かったことだけど、ミケはたいてい朝の会が始まるギリギリを狙ってやってくる。帰るときも号令が終わるなりすぐに教室を飛び出して行ってしまうから、話しかけるなら休憩時間中に限られた。
わたしは一時間目の算数の授業中も、ずっとカニのことを考えていた。そして待望の休憩時間になったのでとりあえずわたしの席からミケのことをチラリと観察してみたのだけれど、ミケは、すぐ隣の席でおもしろおかしくバカ騒ぎしている男子たちに対しても全然興味がないみたいな感じで、一つも笑わずに石のような硬い表情でじっと黒板を見つめていて、その姿を見て、わたしは急に怖くなってしまった。今そこにいるのは、転校初日に「話しかけないでください」と言ったミケだと思った。橋の上で話したミケとは雰囲気が全然違ってて、あだ名をつけ合った出来事も夢だったんじゃないかと錯覚するくらいには、ミケの周りには見えない分厚い壁がそびえ立っていた。
今ここにいるミケと、川で話したミケ。どっちのミケが本当のミケなんだろう。結局カニの話はできないまま、午前中はずっとそんなことを考えていた。そのまま給食の時間になり、給食当番の子たちの配膳を待っている間に、事件は起こった。
さっきミケの隣の席でバカ騒ぎしていた男子たちが、休憩時間を目一杯使っても騒ぎ足りなかったのか、給食の準備時間になった途端に後ろの席の方に集まって喋り始めた。楽しく盛り上がっているだけならそれで良かったのだけど、盛り上がりすぎたのかそのうち一人が飛び跳ねたり腕をぶんぶん振り回し始めた。嫌な予感がして一番前の席でみんなを見守っている先生の顔をチラッと見てみると、みるみるうちに険しくなっていくのが遠目からでもよく分かった。あっ、まずいぞ、と思ったときにはもう遅くて、気付いたときにはシチューが宙を舞っていた。給食着の上から下までシチューまみれの給食当番の子と、さっきまで威勢良く大はしゃぎしていた男子たちが、おんなじ顔で呆然としている。時が止まったみたいに教室が静まりかえって、床に落ちたステンレスのお皿がカランカランと軽い音を立てて転がっていく様子が、まるでスローモーションのようにひどくゆっくりとわたしの目に飛び込んできた。
「ちょっと!なにすんのよ!!」
シチューをひっくり返された当番の子よりも、近くの席で座って待っていた女子の方がものすごい剣幕で怒り出した。どうやら私服にシチューがかかったらしい。ブランド物の服なのに染みが残ったらどうしてくれる、クリーニング代を弁償しろ、というのがその子の主張で、初めは黙って聞いていた男子だったけれど、その女子があんまりにも弁償だとしつこいので、段々と言い合いになり、しまいには大喧嘩が始まった。当番の子は目を真っ赤にして啜り泣いているし、野次馬たちは好き勝手に囃し立てているしで、もう大騒ぎだった。肝心の先生はどうしていたかというと、このままだとクラス全員分のシチューがないかもしれない、誰か片付けといてくれ、と言い残して大慌てで隣のクラスに行ってしまった。つまりこの教室に頼れる大人は誰もいなかった。わたしはどうしたらいいのか分からなくて、お行儀良く自分の席に座ったまま、机にこぼれたシチューがポタポタと床に垂れて水たまりになっていく様子を、遠巻きに見ていることしかできなかった。
最初に動いたのは、なんとミケだった。じっと様子を見ていたミケが、突然教室を出ていったかと思えば雑巾を片手に戻ってきて、誰にも何も言わず、シチューでべっしゃべしゃになった机を綺麗に拭き始めたのだ。大喧嘩している子たちはミケを見て一瞬、えっ、と驚いた顔をしたけれど、またすぐ喧嘩に戻ってしまった。シチューは結構な範囲にこぼれていて、ミケ一人じゃ全然間に合っていない。だからわたしも雑巾を持ってきて一緒に片付けることにした。実際やってみたらすごく簡単なことで、わたしは何をそんなに躊躇っていたんだろうと拍子抜けした。机が綺麗になったので今度はしゃがんで床を拭いていると、おんなじ体勢で椅子の脚の裏を拭いているミケと、ふいに目が合った。
「ありがと、ハチ」
喧嘩の声がうるさくて、聞こえたのはたぶんわたしだけ。ミケは小さく笑っていた。橋の上で見たのと同じ、柔らかい表情だった。
その後何人かがシチューを拭くのを手伝ってくれたので、あっという間に綺麗になった。泣いていた当番の子は他の女子たちに慰められて少し落ち着いたみたいだった。それから大鍋を持った先生が戻ってきて、喧嘩の仲裁とか残りのシチューの配膳とかをすごいスピードでこなしていったので、わたしたちはなんとか給食抜きにならずにすんだのだった。
