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3.新しい名前

 家に帰るとお母さんが晩ご飯の支度をしているところだった。お母さんは専業主婦で、わたしが帰る時間帯はたいてい家にいて何か家事をしている。その代わりと言ってはなんだけれど、お父さんは仕事が忙しいのかいつも帰りが遅くて、わたしが寝る時間になってもまだ帰ってこないこともよくあった。少し寂しいけれど、その分土日にはいろんなところに連れていってくれるし、平日はこうしてお母さんが家でわたしの帰りを待っていてくれるから、そんなに辛くはなかった。  わたしは貸してもらった傘を玄関先に広げて干した。狭いのでこうするしかない。こんなところにわたしのじゃない傘が堂々と置いてあったらどう考えても怪しいから、怒られる前に自分から正直に傘をなくしたことをお母さんに打ち明けることにした。キッチンに行くとお母さんはピーマンを細長く切っているところで、わたしが近づくとおかえり、と声をかけてきた。 「あら、何?学校で何かあったの?」  まだ何も言っていないのに、お母さんにはなんでもお見通しだ。 「あのね、傘、なくしちゃったの。この前一組の子たちと公園行ったとき。探したんだけど、どっかいっちゃったの。わざとじゃないよ」  お母さんはピーマンを切る手を止めて、えっ、と驚いた顔でわたしを見た。わたしはいたたまれない気持ちになって自分の着ている服の裾をギュッと握った。 「どうやって帰ってきたの。今、けっこう雨降ってるじゃない。誰かに貸してもらったの?」 「うん。今玄関に干してる」 「あらそう。とりあえず明日はお母さんの傘を貸してあげるから、早いところお友達に返しなさいね。ちゃんとお礼言うのよ」 「うん、分かった」 「それから、わざとじゃないのは分かってるけど、こういうときは何て言うんだった?」 「ごめんなさい」  お母さんはうん、と頷いた。そんなに怒ってはいないみたいで、わたしはようやく心の荷が下りた心地がした。 「じゃあ、今週末にでも新しいのを買いに行こうか。お父さんも傘を買い替えたいって言ってたし、ちょうど良いわ」  そう言うとお母さんはまたピーマンを切り始めた。隣では鍋がぐつぐつ煮えていて、良い匂いがそこら中に漂っていた。わたしはランドセルを置いて手を洗ってから、晩ご飯の支度を手伝うことにした。お皿をテーブルに運びながら、今日のごはん何、とお母さんに聞くと、チンジャオロースと野菜スープと餃子としらすご飯よ、と返ってきた。今日は中華風だな、とわたしは嬉しくなった。  次の日も雨だった。今日はお母さんの傘をさした。お母さんの傘は大人用だから、ちょっと大きくてわたしの手にはしっくりこない。転校生から借りた折り畳み傘は一晩干しておいたおかげですっかり乾いていた。わたしは折り畳み傘をきちんと丁寧に折り畳んで、ランドセルに入れて学校へ持っていった。  学校に着くとすでに何人かのクラスメイトたちが来ていた。学校に早く着いた人は、朝の会が始まるまでは好きに過ごして良いことになっている。天気が良い日には外で元気良く駆け回っている男子たちも、今日は退屈そうに暇を持て余しているようだった。いつもならわたしは『不思議の国のアリス』の文庫本を取り出して、もう何十回読んだか分からないページをただひたすらにめくってこの時間をやり過ごすのだけれど、今日はそういうわけにもいかなかった。キョロキョロと周りを見渡して転校生を探したけれど、まだ来ていない。転校生が朝早く来るタイプなのかそうでないのか、今まで全く気に留めていなかったせいでよく分からなかった。なので実は今日はいつもより少しだけ早く来てみたのだけれど、残念ながらハズレだったらしい。あんまりキョロキョロして変に思われても嫌なので、文庫本を読むフリをしながら、教室の扉が開いて誰かが入ってくるたびにそれとなく誰が来たのか見るようにしていたのだけれど、転校生はなかなかやってこなかった。もうほとんどのクラスメイトが来て、あと三十秒くらいでチャイムが鳴るというときにようやく、転校生は滑り込むようにして教室に入ってきた。すぐ後に先生もやって来てそのまま朝の会が始まってしまったので、傘を返しそびれてしまった。それから休憩時間が来るたびになんとかして話しかけようとするのだけれど、次が体育で着替えなきゃならなかったり、わたしがトイレに行きたくなったりして、なかなかタイミングが合わなかった。よし、今だ、と思ったら今度は転校生が窓の外を眺めていてなんとなく話しかけにくかったりして、次にしよう、また次にしよう、と先延ばしにしているうちに、とうとう話しかけられずに一日が終わってしまったのだった。  放課後、もう雨は止んでいた。一人で小石を蹴って歩きながら、このままではまずいことになるぞ、とわたしは恐ろしくなった。いったんこうして踏ん切りがつかなくなると、それなりに勇気を出さない限り、明日もあさっても同じ結果になりそうな気がしたからだ。泥棒になりたくはないし、転校生も自分の折り畳み傘がないと困るだろうから、早く返したいのは山々なのだけれど。教室で見た転校生はやっぱり何を考えているのかいまいちよく分からなくて、用があるとはいえ、話しかけて良いのか悪いのか迷ってしまう。そんなことをぐるぐると考えていると、なんだかこのまま帰るのも違う気がして、気付けば転校生と出会ったあの橋に来ていた。 「やっぱり、ここにいると思った」  転校生は橋の上からじっと川を眺めていた。もしかして毎日来ているのだろうか。転校生はわたしに気付くと、えっ、と小さく驚いたような声をあげてこっちを見た。まるで道端でばったり鉢合わせた野良猫みたいに、目をまんまるにして固まっている。それから少しの間を置いて、転校生はぎこちなく口を開いた。 「えっと、なんだっけ。おれ、ここで会う約束とかしてた?」 「ううん。わたしが用事があるから来ただけ。はい、これ。ありがとね」  そう言って折り畳み傘を差し出すと、ああ、と転校生はようやく合点がいったような顔をした。 「ほんとは学校で返すつもりだったんだけど、なんかタイミングが会わなくて。遅くなってごめん」 「いいよ。おれも忘れてかけてたくらいだし。てかさ、今思ったんだけど、人に貸すにはあんま良くない傘だったかも。逆にごめん。ほら、こことか錆びついてるし。いろいろボロボロだ」  そう言われて傘を見てみれば、確かにところどころに細かい赤茶色の錆がついているし、持ち手の部分に貼られたシールの文字にいたっては、一部がかすれて読めなくなっていた。全然気が付かなかった。そしてわたしはなんとなく、目に留まったシールの文字を読み上げてみる。 「ミ……ケ。ミケって読めるね。あっ、もしかしてこれ、名字の一部がハゲてる?好きな猫の模様とかじゃないんだ」  あは、と転校生は笑った。 「そりゃあ猫は好きだけどさあ。普通そんなところにシール貼って主張しないでしょ。おもしろいこと言うね」  転校生は独り言のように、ミケ、ミケ、と小さく名前を反芻して何かを考えているみたいだった。そして、最初にわたしたちがこの橋で出会ったとき――カモを見ていたときのように、転校生の瞳がキラッと輝くのをわたしは見た。 「ね、今からおれのこと、ミケって呼ぶってのはどう?」 「えっ?」  突然の提案に、わたしは正直驚いた。あだ名で呼ぶのはもちろん全然構わないのだけど、それってつまり仲良くなるってことじゃないんだろうか。もしかして転校生は、わたしと、仲良くなりたがっている? 「いいよ。ミケね!」  誰とも仲良くする気はない、という言葉が頭の端っこに引っかかってはいるけれど、そんなことよりも今は嬉しさが勝って、わたしは元気良く答えた。 「じゃあさ、わたしにもあだ名、つけてよ」  返事ついでに今なら大丈夫な気がして、一つお願いをした。すると転校生――ミケは、額に手を当ててうーんと唸った。 「実はさ、まだクラスの人の名前、全部は覚えてなくて……ハチなんとかさん、だったよね?たしか」  正確には読みが違うのだけど、わたしの名字には漢字の八が入っているから、半分当たりだ。わたしが頷くと、ミケはにっ、と笑って言った。 「そしたら決まりだ。ハチ。ハチって呼んでいい?」 「うん。いいよ!」  わたしは嬉しくなって、さっきミケがそうしたみたいに、心の中で何度かハチ、ハチ、と言葉を噛み締めた。わたしは今まで誰かに名字でしか呼んでもらったことがないから、初めてのあだ名はとても特別な言葉のように聞こえて、わたしの心の中にキラキラと瞬きながら降り積もっていった。  もう用事はすんだから帰っても良かったのだけれど、わたしもミケの横に並んで同じように川を眺めてみることにした。今日は水嵩が少なくて、浅瀬になったところを二羽のカモが泳いでいた。カモは泳ぎながらときどき一心不乱に水底をつついていて、すごい勢いで何かを食べている。なんてことはない、わたしにとってはよく見る光景だ。かわいいね、とわたしがつぶやくと、うん、と横から相槌が返ってきた。カモを目で追いかけたまま、ミケが口を開いた。 「そういえば、傘見つかった?」 「ううん、結局ダメだった。週末に新しいのを買ってもらうことになったよ」 「良かったじゃん。いいなあ、新しい傘。おれも欲しいんだけど、絶対買ってくれないからなあ」  聞けば、ミケには高校生のお兄さんがいるらしい。だからいつもお下がりばかりで、内心あんまり面白くないそうだ。しかもミケは本当はピカピカの新しい物が好きなのだとか。一人っ子のわたしには想像がつかない世界で、気の毒だな、とわたしは思った。いろいろ大変なんだね、とわたしが言うと、そうなんだよ、いろいろとね、とミケは肩をすくめてみせた。 「カモ見てるとさ、なんにも考えてなさそうで安心するんだ。おれもあんな風になりたい、ってときどき思う」 「それで毎日ここに来てるの?」 「毎日じゃないよ。気が向いたときだけ。単純におれ、生き物見るのけっこう好きなんだ」 「へえ。それじゃあ、たしかに、この川はおもしろいかもね」  この川には実はけっこういろいろな生き物が住んでいる。カモを見るだけでこんなに目を輝かせているのなら、もっと珍しい生き物のことを知ったら、ミケはどんな顔をするだろうか。わたしはちょっと見てみたくなって、この川の生き物について知っていることを教えてあげることにした。白ブチ模様の小さなフグの話とか、岩の上で日光浴してるカメの話とか。ミケがつまらなそうな顔をしたらすぐに話を終わろうと思っていたけれど、思った以上に興味津々な様子で、打ち切りの心配なんて全然しなくてよさそうだった。特に食いつきがよかったのはカワセミの話で、あれはわたしも一年に一回くらいしか見たことがないから、見かけたらスーパーレアだよ、と話したら、ミケは目をぱちくりさせて、スーパーレア、とわたしが言ったことをそっくりそのままオウム返しにしてから、すげー!と言って笑った。そうこうしているうちに、日が落ちてきたので今日はもう帰ることになった。じゃあね、と言って別れてから家に着くまでの間、わたしは久しぶりに小さくスキップをしたのだった。

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