プロローグ 魔王の生まれた日
1.安寧の日々
なんとなく立ち寄ったとある国の辺境の教会で、久しぶりに見知った顔を見つけて、キルシュは思わず駆け寄った。
「久しぶり、ルナ」
「キルシュ!」
呼びかけに振り返った少女ルナは、ぱあっと花咲くように顔を綻ばせた。ルナは長い栗色の髪をゆるりと下ろし、若草色を主体とした聖職者らしい装いに身を包んでいた。確か前に会ったときも似たような格好をしていた気がする。ということはあれ以来そんなに生活スタイルを変えていないし、なんならずっとこの国で暮らしているのだろう。特定の拠点を持たず各地を転々としている自分とは対称的な生き方だなとキルシュは思った。
「元気にしてた?何年ぶりかしら、えーと、二十年は経ってなかったよね?」
「うん。十四か五年ぶりってとこかな。その格好、シスターの暮らしがよっぽど気に入ったの?」
「ふふ。そうねえ、気に入ったというか、辞める理由がないから続けてるだけなんだけど。言われてみればそうかもね。ここは性格の穏やかな人間が多いし、自然豊かで衣食住に困らないもの、良いところだと思ってるわ。それで、キルシュは?今も商人やってるの?」
「そ。おれの性格上、一つのところに留まるってのはどうも性に合わなくてさ。世界中飛び回って商売する方が面白いし、向いてるんだと思ってる。……どう?せっかくだしちょっと見てかない?今ならまけといてあげるよ」
キルシュは鞄から珍しい品々を取り出しながら、へらりと悪戯っぽく笑った。普通の人間相手になら高値で売りつけてやるところだが、まさかルナ相手にそんなことをするつもりは微塵もない。
「いろんな品物があるのね。このよく分からない土偶?みたいなものも人間の中ではきっとものすごい価値ある物なんでしょう?こういうのも見逃さないできちんと目利きできるなんて、さすがキルシュね」
「褒めてもなんも出ないよ」
怒鳴られたり無茶な値切り交渉をされることも日常茶飯事のキルシュにとって、真正面から面と向かってこういうことを言われるとなんともむず痒い。しかも相手がルナなら、なおさら。ルナが今更自分を煽ててどうにかしようなどと思うはずがないことくらい、キルシュは分かっていた。変な風に顔が緩みそうになるのをぐっと堪えて、鞄の中から他の品物を出してやった。よく分からない土偶なんかじゃなくて、ルナに見せたい物はまだまだたくさんあるのだ。
「違うってば、そんなんじゃないの。だって私には絶対できないもの、単にすごいなあって思ったから口にしただけ。……あら、この宝石なんてすごく綺麗ね。これは……いくらするの?」
ルナは興味津々、手にした宝石とキルシュを交互にチラチラと見ている。キルシュは内心にやりとした。ルナが絶対気にいるだろうと思って鞄に忍ばせておいた甲斐があった。柔らかな翡翠色の宝石は、ルナの瞳によく似た色をしている。どこでいつ手に入れたのかも忘れたが、ただの成金相手に手放すのはなんだか惜しくて、どんなに好条件を突きつけられても全て断ってきた品だった。
「あげるよ。再会記念ってことで」
「え?ごめんなさい、気を遣わせちゃった?ちゃんとお代は払うから、えっと」
「いいって。元々ルナからお金貰おうだなんて思ってないし、おれには必要ない物だからさ。持っていきなよ」
「ほんと?じゃあお言葉に甘えようかな。ありがとう!大切にするね」
ルナは嬉しそうに笑った。その表情は前に会ったときから何も変わっていなくて、キルシュは安堵した。たかが十年ちょっと離れていただけだが、それでも何かの拍子に価値観や思想が一変することだってあり得るのだから。ルナに限ってそんなことはないだろうと思ってはいたが、万一を考えて密かに心配していたのだった。世界を巡る中で、人間の汚い部分にも嫌というほど触れてきたキルシュとは違って、ルナは未だ人間を清い生き物としか認識していない。それで良い。それでルナが幸せなら、都合良く切り取った綺麗な部分だけをこれからも見せ続ければ良いのだ。
「ねえ、旅のお話、聞かせてよ。珍しい景色とか変わった街並みとか、人との出会いとか。いろいろ、あるでしょ?」
「そりゃあもう、たくさんあるよ。どっから話そっかな。長くなるけど、いい?」
それから二人は木陰に腰掛けて会話を楽しんだ。職業柄、あまり他人に深入りしない癖がついているキルシュにとって、こんなに喋ったのは久しぶりだった。
「そういえば、旅先で他の神獣には出会わなかった?私、実は今まであんまり同族に出会ったことがないんだよね。だから気になってるの」
「おれたち神獣って絶対数が少ないからなあ。おれもあんまり見かけなかったよ。あ、でも、いるにはいたかも。気配感じたくらい、かな。そもそもおれたちみたいに人の世に溶け込んで生活してる奴の方が少数派で、小動物なんかに化けて単独でひっそり暮らしてるパターンの方が多数派らしいからな。神獣同士出会ったとしても互いに干渉しないのが普通なんだとさ」
「そうなの?あれ、じゃあ私たちが今こうやって話してるのは、いいの?私はキルシュと関わって困るようなことなんてないからいいんだけど、知らない間にあなたの嫌がるようなことをしてないかしら」
そういうところだよ、とキルシュは後ろ頭を掻いた。同族だからという以前にキルシュはルナという個を好いているし、信頼もしている。神獣としては例外の存在になってまで人の姿で過ごしているのも、単なる気まぐれではなく、ルナが人間を通して見ている世界と同じものを自分も見てみたいと思ったからだった。もちろんこのことはルナには秘密なのだけれど。言ってみればルナの存在はキルシュの生き方に絶大な影響を与えているのだから、今更拒むなんて考えられないし、そうしたいとも思わなかった。
「ルナとはもう長い付き合いだし、おれが困るようなことなんかないよ。だから心配しなくていい。おれらはおれらで、これからも仲良くやってこうぜ」
キルシュはしばらくこの国で商売をすることにして、時々教会にルナの様子を見にいった。ルナと話していると話題が尽きない。さすがに互いに本業があるので毎日というわけにはいかないものの、数日置きにキルシュがふらりとルナのもとへ立ち寄るような生活が続いた。ルナはいつ訪れても変わらず歓迎してくれた。
初めこそ鳴かず飛ばすだった商売がなんとか軌道に乗り始めると、思いの外忙しくて教会へ行く足が遠のいた。一段落したらまたルナに会いに行こうと思いながらもなかなかその時は訪れず、ようやく休暇を取った頃には最後にルナと会ってから三ヶ月が経っていた。
「あら?キルシュ!しばらく見ないから、てっきり他の国に旅立ってしまったのかと思ったわ」
教会の前でしゃがんで花壇に水を撒いていたルナは、キルシュの姿を見かけると冗談めかして笑った。いつもと変わらない穏やかな笑顔。その中に一瞬、キルシュは僅かに違和感を覚えた。いや、でも。思い過ごしか?と考える。
「少し前においしい焼菓子が手に入ったの。一人じゃ食べきれないから、手伝ってくれる?」
「ん、そういうことなら、ご馳走になろうかな。最近繁盛しすぎてさ、ゆっくり休みたかったんだよね。助かるよ」
「ふふ。だと思った。キルシュって甘いの好きだったよね?持ってくるから待ってて!」
そう言って勢いよく立ち上がったルナだったが、急にふらりとよろめくと、まるで糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちそうになった。寸前で抱き留めてなんとか事なきを得たものの、ルナの顔色は真っ青だった。
「あ……」
「ルナ?具合悪いのか?」
キルシュの腕の中で朦朧としていたルナだったが、呼びかけにハッとした表情で顔を上げると、キルシュの手を借りてゆっくりと体を起こした。
「ううん、ありがとう……大丈夫。少し立ちくらみしただけだから。私もそろそろ年かしら?」
「馬鹿言うなよ。おれの方が年上だろ?そのおれがピンピンしてんだから年関係ないって。……そんなことより、ちゃんと飯食って寝といた方がいい。ほら、ポーションわけてやるから」
そんな大げさよ、と苦笑するルナに半ば強引にポーションを押し付けると、ルナはしぶしぶ受け取って礼を言った。不服そうだが、この際どう思われても関係ないと割り切った。ルナは特に生命力の強い地属性の神獣だから、ちょっとやそっとのことで体調を崩すはずがない。だから目に見えて顔色が悪いとなると、本人が自覚している以上に身体に負荷がかかっているのだ。
「また様子見に来るから。仕事はほどほどにして休めよ。あ、なんかいるもんある?次来るときに調達してくるけど」
「ええ、せっかくお茶にしようと思ってたのに。もう行っちゃうの?」
「おまえなあ。焼菓子は逃げないしおれも逃げないんだから、そんな顔してないでしっかり休めよ」
ヘソを曲げているルナを宥めるようにくしゃくしゃと軽く頭を撫でてやれば、ルナはようやく観念したように大人しくなって自室に帰って行った。それでいい。あのポーションも伊達じゃないから、あれを飲んで丸一日休息を取りさえすればそれなりに効くだろう。また来るから、とルナの背中に声をかけて、キルシュも教会を後にした。
