2.転がり落ちていく
次に教会を訪れたとき、ルナの姿がなかった。大抵の場合ルナは花に水をやっているか、井戸水を汲んでいるか、とにかく外に出ていることが多いのだが、今日はどこにも見当たらない。教会の中で仕事中となればさすがに邪魔するのも気が引けるので、一旦出直そうかどうしようかと考えていると、背後からもしもし、と話しかけられた。振り向くと、この教会で働く神父らしき男性がこちらを見て穏やかに微笑んでいた。
「ルクレチアーナ様でしたら、少し体調が優れないご様子でして。今日は自室でお休みになられていますよ。会いにいらしたのでしょう?」
物腰丁寧で柔らかな雰囲気の神父だが、何故だかキルシュは形容し難い嫌悪感を覚えた。そしてすぐにその理由に気付く。ああ、そうか。この男、人間相手に商売するときの自分と同じ顔をしているのだ。隙のない貼り付けたような笑顔の裏に、悟られたくない何かを隠しているような、そんな顔。一体何をそんなに隠したいのだろうか。キルシュは警戒心を隠すそびれもなく、神父に冷たく言い放った。
「ああ、うん。そうだけど。そっか、なら仕方ないね。医者には見せた?」
「ご心配には及びません。ルクレチアーナ様は神の力をその身に宿されたお方ですから、下手に我々人間が治療を施すよりも、ご自身の治癒力に任せた方が早く良くなるかと」
キルシュは目を丸くした。神父は相変わらず笑顔のままだ。
「へえ、ルナのこと知ってたんだ。じゃ、おれの正体も知ってる?」
「もちろんでございます。あなた様も神獣のお一人。我々人間にとって最も尊ぶべき存在でございます」
「……で、神獣のおれに何の用?それだけじゃないんでしょ、言いたいことは」
気味が悪い。あからさまに嫌悪感を露わにし続けているにも関わらず一切動じる気配のない神父に、キルシュは苛立ちを募らせていく。すると神父は待ってましたと言わんばかりに猫撫で声で語りかけてきた。
「あなた様の血を、ほんの少し分けていただきたいのです。神獣の血には神の力が宿っておりますから、研究が進めば例えば不治の病を治癒することにも繋がるかもしれません。人類の発展のため、ぜひともお力をお貸しいただけないでしょうか」
何かが引っかかる。病の治療だの人類の発展だのはきっと建前で、どうせ真意はもっと別のところにある。キルシュは眉を顰めた。
「なるほどね。そうやってルナを言いくるめたんだ。全然少量じゃないじゃん。ルナが貧血になってぶっ倒れるほどの量ってよっぽどなんだけど?」
神父の笑顔が一瞬揺れて、ピクリと眉が動くのが見えた。
「言いくるめた、というのは心外でございます。ルクレチアーナ様が自ら望んで協力してくださったのですから。神獣の体質は我々人間にとっては未知なるもの。加減が分からぬものですから、ルクレチアーナ様のご厚意のままに頂戴したところ、このような事態となったのでございます。我々としても心を痛めているのですよ」
「……」
要するに自分たちは悪くないとでも言いたいのだろう。おそらくそれがこの神父の本心だ。ルナを心配しているようでいて実のところは保身に塗れた台詞を、よくもいけしゃあしゃあと吐けるものだなとキルシュは冷ややかな視線を送った。
「もちろん今後はこのようなことが起きぬよう、徹底した管理を実施いたしますのでご安心ください。キルシュ様、いかがでしょう?我々人類のため、あなた様にもどうかご協力を……」
「おれはやんないよ。そこ通して、ルナに会いに行くから」
キルシュは吐き捨てるようにそれだけ言うと、まだ何か喚いている神父を無視して教会の中へ入っていった。久々に嫌な物を見た。この後どんな顔で何をルナに言えば良いのだろう。答えは出ないまま、気付けばルナのいる部屋の前に辿り着いていた。
「キルシュ?どうしてここに……ああもしかして、心配して来てくれたのね」
キルシュが訪ねると、ルナはベッドから上半身だけ起こして本を読んでいるところだった。ルナは本をサイドテーブルに戻し、驚いたような顔でキルシュを見つめた。血の気がなかった頬も今はほんのり赤みをさしていて、前に倒れたときに比べれば良くなっているのは間違いない。それでも元々色白な肌はさらに白く儚く見えて、病的な美しさにキルシュは怖くなった。
「うん、まあ、そんなとこ。思ったより元気そうで良かった」
嘘はついていない。キルシュは適当な椅子を引っ張ってきてベッドサイドに置くと、ルナの近くに腰かけてそっと頭を撫でた。温かい。キルシュは細く息を吐いて一旦は安堵した。
「私なら平気よ?今だって大事をとって寝ているだけで、大したことは……」
「外にいた神父に聞いたよ。血を、人間に、分けたんだって?」
笑って誤魔化そうとするルナの言葉を遮り、一音ずつ確かめるように問うた。弱っているところをさらに追い討ちかけるような真似はしたくなかったから、できるだけ威圧的にならないように、静かに、諭すように。けれどいくらルナ相手とはいえども許せないことはあって、言葉の節々にうっすら怒りが滲んだ。ルナは無垢だ。種族の垣根を超えて皆仲良くなれると本気で思っていて、与えた分だけ返ってくる心も温かいものしかないのだと信じて疑わない。人間の汚い部分に触れたことがないから、良い人間ばかりではないということが分からないのだ。分からなくて良いと、知らなくて良いとルナの両目を塞いでおきながら、いざ傷付いているのを目の当たりにしてみれば、なんで見え透いた罠に嵌るんだと身勝手に腹を立てている自分に対してもキルシュは苛立っていた。
ルナはキルシュのいつもと違う雰囲気を察したのか、軽口を叩くのを辞めて静かにキルシュの顔を窺った。新緑色の瞳が何かに迷ったように揺れている。それから少しの沈黙が流れた後、ようやくルナは躊躇いがちに口を開いた。
「人間の役に立てるって聞いたの。私の血があれば今まで救えなかった病気の人たちも救えるようになるかもしれないって」
「仮にそうだとしてもさ、ルナが倒れてまでやらなきゃいけないこと?」
「それは……もちろん、加減はしなくちゃいけないけど。人間のことは好きだから、力になれるのならなんだって構わないわ。それに私の治癒力が高いの、キルシュも知ってるでしょう?だから心配しないで。次からは気をつけるから」
「そうは言っても、あいつら搾取するだけして何の見返りもよこさないじゃないか。あの神父だってどこまで本当のこと言ってんだか……」
「キルシュ」
温厚なルナにしては珍しく、咎めるようにキルシュの名を呼んだ。
「私たち神獣の使命は、この世界を作りし神の代わりとなって、生きとし生けるものを守り、安寧と繁栄に導くこと、だったよね。だから私はやるべきことをしているだけよ。キルシュ、あなたは違うの?」
「おれは……」
二人がこの世に生まれ落ちてから、千年以上の時が経っている。世界中のどこを見渡してもこんなに長命な種族は他にいない。神獣は生まれながらにして神に見初められ、力を得る代わりに寿命はあってないようなものとなった。
使命、とルナは言うが、そんな力をくれと頼んだ覚えはないのに、勝手に与えたのは神の方だ、とさえキルシュは思う。長く生きてきたことによる恩恵ももちろんあるが、それ以上にどうやっても他の生物と同じ時間を歩むことは不可能という事実にキルシュはずっと心を痛めていた。ルナの言う通り守るべき心の清い人間も確かに存在する。けどそういう奴らだって、結局は皆例外なくキルシュを置いて土に還っていく。せめて、と墓に手を合わせることもしたが、そのうち心無い人間によって踏み荒らされたり壊されたりもした。いつもこの繰り返しでキルシュは良い加減に辟易していた。無条件に全ての人間を守ってやる価値があるとは、到底思えなかった。
「おれだって、できることならそうしたいさ。けど無理だ。おれたちに犠牲を強いてまで繁栄を願うような奴らまで、なんで守ってやらなくちゃならない?なんで手を貸してやんなきゃならないんだ」
「そんな、話が飛躍しすぎだわ。酷いことする人間なんてほんの一握りよ。人間たちのことを悪く言わないで」
ルナの瞳の奥に悲しみの色が宿るのを見た。泣きたいのはこっちだというのに。伝わらないもどかしさから、とうとうキルシュは声を荒げてしまった。
「ああもう、ルナ。なんで分かんないかなあ。おまえが優しいのは分かってる、けど自分のことも大事にしろって!見てらんないんだよ!」
ルナはびくりと肩を震わせたが、それからすぐにムッとした顔で言い返してきた。ルナにはルナの価値観があるのは当然で、言われっぱなしというわけにもいかないのだろう。
「だから私は大丈夫だって、ずっと言ってるじゃない!どうしてそんなに人間のことを嫌うの?私は人間を信じたいの。好きにさせてよ!」
両者一歩も譲るつもりがないのは明白だった。気まずい沈黙が続く。先に静寂を破ったのはルナの方だった。
「これ以上あなたと話して喧嘩したくない。悪いけど、しばらく一人にさせてくれる?」
「……」
ルナは悲しそうに目を伏せて、いつも通りの穏やかな口調でそう言った。怒鳴るんじゃなかったと、傷口に塩を塗るような真似をしてしまったことをキルシュは悔いた。けれどルナの言う通り、このままでは話は並行線を辿るのみで、また口論になるだけだろう。キルシュとてそれは望んでいなかった。
「分かった。じゃ、もう行くね。お大事に、ルナ」
ごめん、ともまた来るよ、とも言えず、キルシュはただ部屋を出ていくしかなかった。ルナの返事を待たずに扉を後ろ手で閉めて、部屋から遠ざかっていく。ルナの見せた悲しい顔が目に焼きついて離れなかった。
悪いように考えすぎなのかもしれない。もしかしたらあの神父たちは本当に皆の幸せを考えていて、今回のこともたまたま上手くいかなかっただけなのかもしれない。いや、でも。歩きながら、キルシュはぐるぐると思い詰めていた。何が正しいのか分からない。分からないけれど、ただ一つはっきりしているのは、キルシュはルナの幸せを願っているということだ。険悪な雰囲気になってしまった手前、しばらくはそっとしておいた方が良いだろう。ほとぼりが冷めたらまた様子を見に行って、今回のことを詫びて、ルナが好きな焼菓子でもお土産に持っていこうか。そう結論づけることにしてキルシュは心を鎮めた。しかし嫌な予感というのは当たる物で、すぐにルナの元へ戻らなかったことをキルシュは後悔することになるのだった。
