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3.地の国ドルアード

 次にキルシュがこの国を訪れたとき、凄惨な光景が広がっていた。 「は、なんだよ……これ……?」  逃げ惑う人々、悲鳴と怒号、あちこちから立ち昇る真っ黒な煙と炎。緑豊かで美しかった国は、瓦礫と何かの肉片と赤黒い液体とで見る影もなく変容していた。何が起きているのかは分からないが、考えるよりも先に体が動いた。キルシュは国の外へ逃げようとする群衆とは真逆の方向へと駆けていく。すると間もなくして異形の怪物たちがどこからともなく現れて、行く手を阻むようにキルシュを取り囲んだ。見たことがない生物だ。いや、生物と言えるかどうかも怪しい。彼らはまるで壊れた殺戮兵器のように、目に映るもの全てを破壊して回らねば気が済まないようだった。化け物だ。キルシュは護身用に身につけていた短剣を引き抜きながら、奇声をあげて襲いかかろうとしてくる化け物に焦点を合わせて――そして唖然とした。だって、彼らは。 「おまえら!聞け!まだ人としての意識が残ってんなら、目ぇ覚せ!簡単に人間辞めてんじゃねえよ!!」  キルシュには分かる。もはや原型を留めていないけれど、その醜い肉体の中に宿っているのは、紛れもなく人間の魂で。どうにかして呼び戻そうと必死に叫ぶも届かず、何がそうさせるのか、彼らは虚ろな瞳のままキルシュの首をへし折ろうと全速力で突っ込んできた。ダメだ。話が通じる相手ではない。キルシュは唇を噛みながら、その場で思い切り跳躍して攻撃を避けると、そのまま落下の勢いに任せて短剣を振りかざし、巨体の肩から腰までを真っ二つに引き裂いた。一瞬だった。神獣の力は伊達ではないから、このくらいの戦闘など造作もないのだが、心臓がバクバクと音を立ててうるさくて、キルシュは顔を歪めた。それでもやるしかない。ここで立ち止まっていてはいけないと、無理やり心を奮い立たせてキルシュは迫りくる化け物たちを残らず薙ぎ倒していく。  そうしてたくさんの血を見ながら辿り着いた教会は、そこだけ切り取ったかのように静かで何の音もしなかった。ただいつもと違うのは、ルナが大事に育てている花壇の花たちが軒並み枯れたまま放置されていることくらいだろうか。意を決して教会の扉を開け、中に入る。いつもなら小綺麗に整理整頓されているはずの室内はまるで強盗が押し入った後のようにぐちゃぐちゃで酷い有様だった。散乱する本、何かに叩きつけられたようにへこんだ机、割れたステンドグラスの破片。しかしそんなことはどうでもよかった。キルシュにとって意味があるのはただ一つ。よく知る色の魔力の微かな気配を追って地下室へ向かうと、血溜まりの中、鎖に繋がれて傷だらけのルナが細く息をしていた。 「ごめん、こんなになるまで気付いてやれなくて……ごめん、本当に、ごめん……!」  誰のものかも分からない血で汚れるのも構わず、キルシュはルナを抱き寄せた。大丈夫だ、まだ温かい。どくんどくんと心臓の鼓動が聞こえてくる。キルシュは手をそっとルナの頬に添えると、目を閉じて念じた。魔法はあまり得意じゃないのだけれど、今日ばかりは何に代えても絶対に成功させなくちゃいけないから。精神を集中させ、キルシュの中の魔力をありったけかき集めて必死に注ぎ込んだ。さすがに腐っても神獣、多少の精神のブレは膨大な魔力量でカバーできたようで、金色の柔らかな光が手から溢れ落ちると瞬く間にルナの傷を癒していった。そして固く閉じられていたルナの瞼が、ゆっくりと開いていく。 「キルシュの言う通り、だった……わ、わた、私がっ、あの人たちを信じたり……血を、あげたりなんかしなければ……こんな、こんなことには……」 「落ち着け。ルナのせいじゃない」 「で、でもっ……わ、わたし……取り返しの、つかないことを……!」  怯えるルナを抱きしめて優しく背中を撫でてやると、ルナは小刻みに震えながらポロポロと涙を溢した。よほど酷い目に遭ったのだろう、いつもの穏やかなルナからは程遠く、小さな子どものように泣きじゃくってキルシュに縋った。しばらく身を寄せ合って少し落ち着いたのか、ルナは今にも消え入りそうな声で少しずつ語り始めた。 「……初めは本当に治療薬の研究をしていたらしいの。でも……そのうち、みんなおかしくなっていった。私の血を飲めば、永遠の美貌が手に入るとか、不老不死になれるだとか。そんな噂が立ち始めて、気づいたときにはもう遅かった。私の血を何の加工もせずにそのまま飲んだ人たちは、確かに望む力を得たかもしれないけれど、身に余るほどの力を制御できるはずもなくて、その場で血を吐いて死んでしまうか、気が狂って人ならざるものに成り果てた……もうやめて、おしまいにして、って言ったけど、誰も聞いてくれなくて……血を取られすぎて動けないのに、私が逃げ出さないようにって、こんなところに鎖で繋がれたの。それからはずっと、ここで見ていることしかできなくて……こんなことのために協力したんじゃないのに……!」 「ルナ。よく耐えた。今は何も考えるな。これからのことは、後で一緒に考えよう。それで、いいだろ……」  何を言ってもルナの心をさらに抉ってしまうような気がして、慰めの言葉も見つからなかった。裏切られた挙句の果てに自分のせいで人を魔物に変えてしまったと知れば、人間を信じてきたルナにとっては想像を絶する苦痛だろう。割れた花瓶が元の形に戻らないように、一度壊れてしまった心は治せない。輝きに満ちていた新緑の瞳が、今は暗く深い闇の底に沈んでいるようだった。 「たくさん、死んだわ。無関係の人たちも大勢巻き込んだ。この血のせいで」  ルナは突然キルシュを突き飛ばすと、短剣を奪い取り、震える手でそれを自分の首に突きつけた。 「ばっ……何してんだ!」  予想外の動きに反応が遅れた。ルナが何をしようとしているのか瞬時に悟ったキルシュは、それだけは絶対にさせまいと叫ぶ。 「お願い、止めないで。これ以上、こんな世界見たくないの。もう、何もかもいや。この先ずっと苦しんで生きていくくらいなら、今ここで死んだ方がマシよ!」 「ルナっ!」  びくり、とルナの肩が震えて一瞬動きが止まったのをキルシュは見逃さなかった。素早く懐に入り込むとルナの手から短剣を叩き落とし、明後日の方向へとぶん投げてどうにか最悪の事態を回避した。捨て身で動いたせいでキルシュの手も刃で抉れて血が流れたが、不思議と痛みは感じない。ルナが無事でいてくれるのなら、この身がどうなろうと構わなかった。涙目で硬直しているルナをもう一度ふわりと包み込むと、キルシュは耳元でそっと囁いた。 「分かった、分かったから。苦しまなくて済む方法、他にもあるから。だからそんな、変な気を起こすな。自暴自棄になって、命を捨てようだなんて考えるなよ」 「ごめん、ごめんなさい……助けてくれるの……?」 「うん。ルナの中から、辛い記憶を取り除いてあげる。やったことないから上手くいくかどうかは分かんないけど……それでも、死んじゃうよりかは、ずっとマシだ」  旅のどこかで耳にした、忘却魔法。本当はそんな都合の良い魔法なんてキルシュには扱えない。対象の記憶を部分的に選択して消してやるとなると、それこそ熟練の賢者でもない限り不可能な芸道だ。それでも、キルシュはルナを安心させるように手を取って、目を見て笑いかけた。大丈夫だから、と呟くと、ルナはこくり、と素直に首を縦に振った。 「ありがとう、キルシュ……」  ルナの瞳に僅かな希望の光が灯ったのを見て、キルシュはほんの少しだけあった迷いを振り切って、静かに詠唱を始めた。心を落ち着かせ、ルナの額に触れた掌に魔力を集中させる。やがてルナが穏やかな表情で眠りにつくと、ようやくキルシュは安堵した。次に目を覚ましたとき、キルシュのことは忘れてしまうのだろうけれど。それでも詠唱は辞めなかった。元気に笑っていてくれるなら、それでいい。必ずしも自分が側にいてやらなくても、ルナが幸せならそれでいいのだと、自分に言い聞かせながら。 「おわった、よ」  おおよそ千年分の思いの丈はついに伝えないまま、とうとう完遂した。慣れない魔法を使い過ぎたからか頭が酷く割れるように痛い。涙と一緒に乾いた笑みが出て、今頃になって全身いろんなところが痛んだ。  これからどうしようか、とキルシュは考える。記憶を真っ新にして生まれ変わったルナが最初に目にする光景がこんな惨状であって良いはずがない。ルナは人の温もりの中で笑っているのが似合う。とすれば、人間のことを良く思わないキルシュが側にいるのは違う。このまま自分の側に縛り付けて辛い記憶を呼び覚ましてしまうくらいなら、二度と関わらない道を選んだ方が良い。 「さよなら、ルナ」  眠るルナの額にそっと口付けて、覚悟を決めた。あとは簡単だ。どこか遠くの町にでも連れて行って、新しい人生を歩んでもらえばいい。  しかしその前にまだやることがある。いつからそこにいたのか、コツコツと近づいてくる足音を背中で捉えて、キルシュはゆっくりと立ち上がった。 「困りますねえ、勝手に抜け出されては。まだ研究は始まったばかりなのです。どうかそのまま、我らと共に」  振り返ることすらせずに、キルシュは声の主に向かって短剣を鋭く放った。もちろん当てるつもりで。短剣は真っ直ぐ飛んでいき、思惑通りに神父の脇腹に突き刺さって汚い血飛沫を辺りに撒き散らした。 「もう、いいよ。つかれた」 「ぐはっ……き、貴様っ!こんなことして、タダですむと思うなぁっ……!?」  もう一本、隠し持っていた短剣をなんの躊躇もなく神父の心臓目掛けて突き立てる。華奢な体格のキルシュがまさか飛びかかってくるとは思わなかったのか、油断した神父は剣を避けることもできずに容易くその身を貫かれた。ぎゃっ、と短い断末魔が聞こえて、やがて静かになる。あまりにも呆気ない最期だ。どうせなら爪の一枚や二枚剥いでやれば良かったと思ったが、これ以上関わりたくもないのでまあいいか、と気を取り直した。 「やっぱりそっちが本性なんじゃん」  キルシュは動かなくなった神父を汚いものを見るかのように見下ろしながら、はは、と短く嘲笑した。 「最初っからこうしてれば良かった、ね」  キルシュは事切れた神父にゆらりと近づくと、その首を刎ねて蹴飛ばした。 「おれは、おまえたち人間を許さない」  キルシュの真っ赤な瞳がギラリと光った。この国から人間を抹殺してやる。それから支配者となった暁には、ここを人ならざる者のための楽園に作り替えるのだ。人間は誰一人としてこの国に近寄らせない。憎しみや悲しみは全部、自分が貰い受ける覚悟はできているから、たとえ最愛の人と袂を分つことになろうとも構わない。二度と悲しい思いをする同胞たちを産まないために。そして、ルナの笑顔を守るために。  その日、地の国ドルアードは滅亡した。  少女の行方は、誰も知らない。

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