2.迷い込んだ小鳥
リュカは一人、片足を引き摺りながら無理やり歩みを進めていた。砦からほんの少し離れただけのこの場所だが、戦場の喧騒が嘘のように長閑で穏やかな光景が広がっていた。小鳥が囀り色とりどりの花が咲き乱れている。柔らかな緑のキャンバスに不相応な赤を散らしながら、リュカは苦痛に顔を歪めていた。毒でも仕込まれたのだろうか。傷はそこまで深くないはずなのに、嫌な冷や汗が止まらない。
水場を探して傷の手当てを終えたらすぐに戻るつもりだったのだが、水場に辿り着く以前に身体がどんどん重くなっていく。
「こんなところで……くたばるわけには……」
気付けば立っている気力すら失せてどさりと花畑に倒れ込んでいた。花の良い香りが鼻を掠め、耐え難い眠気がリュカを襲う。ダメだ。ここで目を閉じたが最期、きっと二度と起き上がれない。必死に抗おうとするも、もはや痛みすら分からないほど意識が混濁していく。
今回の任務は、とある賊の護衛。この賊は以前にも何度か国と小競り合いを起こしており、その度に砦に篭って攻防しているのだそうだ。国を敵に回すことになるので普通の感覚の持ち主なら引き受けない、いわゆる闇案件だが、提示された報奨金は数年分の薬代に匹敵するほど高額で、こんなチャンスは滅多にないと飛びついた。要は、勝てば良いのだ。戦場ではいつだって勝者が正義で、そこに物事の善悪は関係ない。幸いにも賊たちは戦闘経験が豊富で、一方の敵軍は新米兵士ばかりだとかで、勝敗は見えているようなものだった。勝てると判断した側につく、ただそれだけのことだった。
ところが、リュカの見立ては甘かった。
弱小勢力と侮っていた敵軍が、予想以上に強かったのだ。リュカとて今まで何度も戦場を潜り抜けてきているし、剣の腕前は伊達ではないのだが、それでも猛攻を防ぎ切ることはできず、まともに刃を食らってしまい、今に至るというわけだった。
「許せ……不甲斐ない兄を……」
とうとう報いを受けるときが来たのかもしれない。一人残される妹のことを思うとただただ不憫で無念だった。真実を知った妹は一生自分のことを恨むのだろうか。それでも構わないから生きてほしいと願うのは、リュカのエゴだ。
薄れゆく意識の中、天に身を任せて瞼を閉じた――その時だった。
「だ、大丈夫ですか!?」
頭上に降ってきたのは、聞き慣れない少女の声。体が動かないので、もはやこの少女が何者であるとか、余計なことを考えるのは諦めた。ところがリュカの身に降り注いだのは、死ではなく、温かな癒しの光だった。
瀕死の状態だったのが嘘のようにみるみる傷が塞がっていく。人智を超えた癒しの力。主に聖職者が扱うことのできる、治癒魔法に他ならなかった。
「危ないところでしたね。もう動いても良いでしょう」
驚いて上体を起こすと、シスターと思わしき見知らぬ少女が、まるで女神のように優しい微笑みでリュカを見つめていた。
「助かった。礼を言わせてくれ。……にしても、何故こんな場所へ?ここは危険だ。死にたくなければ、早々に立ち去るが良い」
すっかり元気になったリュカは立ち上がると、未だリュカの隣から動こうとしない少女に冷たく言い放った。命の恩人に対して酷い言い草なのは自覚している。が、仕方がなかった。誤って民間人が戦場に迷い込むのはよくあることだが、仕事を放り出してまで安全を確保してやる筋合いはどこにもないからだ。ついてくるなと言わんばかりに冷ややかな視線を少女に向けるも、動じる様子なく少女は答えた。
「いえ、そういうわけにもいきません。実は……この辺りにいる盗賊に、私の大切な物を盗られてしまって。取り返しに来たのです」
「それで一人、こんな場所をうろついているのか?命知らずにもほどがあるな」
手入れの行き届いた長い栗色の髪に、若草色の清楚なドレス。明らかに戦闘向きではない美しい装いの少女が、単騎で砦に突っ込んだところでどうなるかは容易に予想が付く。国の兵士ならまだしも、相手は賊だ。よほどの馬鹿か世間知らずなのかと、リュカは驚きを通り越して呆れ返った。そして、ふと思い付く。この状況を利用し、戦況を有利にひっくり返す術を。
「ここから賊のいる砦まではそう遠くない。助けてもらった礼に案内しよう。ついてくると良い」
「本当ですか!?ありがとうございます!」
リュカの気が変わったわけではない。この少女はおそらくリュカのことを国の兵士か何かだと勘違いしているから、親切な味方のフリをして砦まで連れて行き、そこで人質として捕えるのだ。賊と違って国の兵が民間人を見殺しになどできるはずもないから、交渉材料として使うには都合が良い。そういう算段だった。
(哀れな娘だ)
疑うことを知らない少女は、まんまと策略に引っかかってリュカの後ろに続いた。向かう先が檻の中だとは露ほども思わず、無垢に笑っている少女の姿に、ほんの一瞬、妹が重なる。そんなものは幻想だと独りごちて、握りしめた拳は微かに震えていた。
「もうすぐ砦だ。安全を確認してくるから、少しそこで待っていろ」
「分かりました。お気をつけて」
先に砦の内部へと戻ったリュカは、賊たちに計画を説明した。疲れた顔の男たちが、一気に生気を取り戻していく。それなら勝てるかもしれない。勝利は目前だ。各々が希望を口にしながら、意気揚々と持ち場に戻っていった。誰も民間人を巻き込むことに疑問を呈さないところが賊らしいが、それを言うならリュカも同類だ。堕ちるところまで堕ちたものだ、と自嘲しながら、リュカも少女の待つ場所へと駆けて行った。
「朗報だ。財宝がまとめて置いてある部屋を見つけた。その中に探し物もあるのではないか?人が少ない今なら忍び込める。行こう」
我ながら、よくもまあこんなにスラスラと口からでかませが言えたものだと思う。少女は相変わらずリュカを信じきっているらしく、元気よく頷くと、リュカに案内されるがままに砦内部へと足を踏み入れた。
「こっちだ。さあ、中へ」
頑丈な石造りの壁に鉄格子が並んでいるだけの、何もない部屋。明らかに誰かを捕らえておく意図で設計されたその部屋に辿り着くと、初めて少女は狼狽えた。
「えっ?どういうことですか……!?」
少女が振り向くよりも早く、その首元に軽く手刀を落としてやった。抵抗する間もなく倒れ込んだ少女を受け止めて担ぎ上げると、そのまま鉄格子の中へと横たわらせて外から鍵をかけた。
「悪く思うなよ。恨むなら自分の運のなさを恨むことだな」
固く目を閉じて眠っている少女の姿を妹と重ねて見てしまう前に、リュカは底なしに暗く凍りついた瞳のまま、牢獄を後にした。
