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2.転校生と傘

 六月も後半、湿気と熱気で不快な天気が続いていた。しかも梅雨真っ只中で、どこへ行くにも傘が欠かせない。晴れ間を縫うようにして、隣のクラスへ行ってしまった馴染みの友達たちと久々に待ち合わせをして公園で遊んだ。最近のわたしにしては珍しく心が弾んでいて、公園にたどり着いたのもわたしが一番乗りだった。お菓子やシール手帳なんかもカバンに詰め込んで、後から思うと浮かれすぎていた。友達はみんなわたしのことを歓迎してくれたけれど、そのうちクラスメイトでないと分からないような話題で盛り上がるようになり、わたしはヘラヘラと作り笑いでその場を誤魔化すので精一杯だった。やけに膨らんだカバンのことをいじられたりもしたけれど、なんでもない、と嘘をつくしかなくて、わたしの心はジリジリと焦げついた。ついにカバンの中身は日の目を見ることのないまま、一人帰路についた。最後の砦だと思っていた居場所は、もうとっくに失われていたのだ。誰が悪いわけでもない。誰かのせいにしたくて、できなくて、わたしの思考は同じところを行ったり来たりするばかりだった。だからうっかり傘を忘れて帰る羽目になったのも、全く不思議に思わなかった。  次の日、わたしはまだなんとなくもやもやした気持ちのまま、学校帰りに仕方なく傘をとりに向かった。わたしの通っている小学校の学区は南北に細長くて、北と東には交通量の多い大通りが、南は線路、西は川があって、ちょうどそこが隣の学区との境目になっている。わたしが住んでいるのは学区の真ん中くらいにある四丁目で、小学校はそこから南に進んだ三丁目にあった。一見近そうに感じるけれど、そうでもない。五丁目の友達の家に行くだけでも歩いて三十分はかかるから、もし学区の端から端まで歩いたとしたらものすごく時間がかかるだろうし、へろへろになってしまうに違いない。今回傘を忘れた公園は一丁目にあるから、へろへろとまでは行かなくても、ただ傘をとりに行くためだけに行くのは少し損をした気分だった。  学校を出て南西へ歩いていくと川が見えてくる。川の両脇は簡単に下りられないようにしっかりと舗装されていて、車が通れる広い橋と、歩行者と自転車しか通れない狭い橋がかけられていた。この橋を越えると隣の学区だ。そっちじゃなくて手前側、学区内の緑地帯に用があった。川沿いに緑豊かな公園が南へ続いていて、わたしの小学校では特に一丁目の友達と遊ぶときの人気スポットになっている。わたしの記憶が確かなら、そこにあるブランコの近くに傘を置いたままのはずだ。  ところが、ブランコの周りをいくら探しても傘は見つからなかった。もしかすると誰かが持っていってしまったのかもしれない。さすがに明日は雨予報だし、このまま家に帰ったら、傘をなくしたことをお母さんに知られてしまう。それが嫌で、途方に暮れていた。ひょっとして別のところに置いてあるかも、と諦めきれずに視線をブランコ以外に移したところで、すぐ側の橋の上に見たことのある人が立っているのに気が付いて、傘のことなんてそっちのけで思わずそっちを見た。転校生だった。彼はランドセルを背負ったまま、橋の手すりに両腕をぺたっとつけて、下を流れる川をじっと見つめている。つられて視線を川へ落とすと、茶色のカモが二羽、仲良く並んで気持ちよさそうに水面を泳いでいるところだった。どうやら転校生はこのカモを眺めているらしい。この辺ではよく見かける生き物だけど、東京では珍しいのだろうか。転校生はわたしの存在に全く気付く様子もなく、キラキラと揺れ動く瞳で、とにかく夢中になってカモを見つめているようだった。  カモの何がそんなに彼を惹きつけるのか、聞いてみたい気持ちはあった。けれど自己紹介のときにあんなにはっきりと「話しかけないでください」と言っていたくらいだから、そんなくだらないことで話しかけたら迷惑になるんじゃないか。そう思って静かにその場を立ち去ろうとしたのに、あろうことか彼は、対岸の方へと移動し始めたカモを追いかけて、橋の向こう側へと走り出したものだから、わたしは思わず「あっ」と声を漏らした。 「ねえ、そっち行ったらダメなんだよ!誰かに見つかる前に、戻った方が良いよ」  転校生はビクッと背中を揺らして、橋の真ん中で立ち止まるとぐるんと勢いよく振り返った。驚いた顔の転校生と目が合って、わたしはなんだか悪いことをしてしまったような気がして、もにょもにょと口籠もりながら小さな声で続けた。 「子どもだけで学区の外に出たらいけないの。理由はよく分かんないけど、危ないからって先生たちみんな言ってた。見つかったら怒られちゃう」  そう言いながら、どうしよう、余計なこと言わない方が良かったかな、とどんどん心細くなっていった。心臓がどくんどくんと音を立てるのが聞こえてきて、声をかけたのはわたしの方なのに、この後なんて言ったら良いのか分からなくなって立ち尽くしてしまった。転校生は少しの間ポカンとしていたけれど、一歩わたしの方へ歩みを進めてから、言った。 「そうなんだ。知らなかった、あっちが学区外?」  転校生は人懐こそうな顔でこっちを見ている。わたしが話しかけたことを嫌がっているわけではなさそうだったから、ほっと胸を撫で下ろした。 「うん、そう」わたしは息を整えてから言った。「川と、あっちの線路と、大通りを越えたら全部学区外。大人が一緒ならいいんだけど……」  わたしはちょっと嫌な記憶を思い出して、若干顔を顰めた。 「五月くらいにもあったんだよね。うちのクラスの男子たち何人かでこっそり海の方まで行った人がいたらしくて、誰かが先生にチクってバレちゃって、帰りの会のときにみんなの前でものすごく怒られてた」 「うわ、それはやだな」  転校生はぺこり、とわたしに軽く頭を下げてから、教えてくれてありがとうと礼を言ってきた。 「どういたしまして」わたしはもうずいぶん川の上流の方へ行ってしまったカモたちをチラリと見てから、思い切って聞いてみた。「カモ、好きなの?」 「好きっていうか……ほんとにいるんだ、って思って見てた」 「ほんとにいるんだ、って、東京だとカモって珍しいの?」 「分かんない。いるところにはいるんだろうけど、おれはテレビでしか見たことなくてさ。こんな近くで普通に泳いでるなんて、びっくりした」  へえ、とわたしは相槌を打った。 「冬になったらもっといろんな色のカモが増えるよ。ほら、カモって言ったら一番に思い浮かべる……頭が緑色のマガモなんかは、渡り鳥だから夏の間はほとんど日本にいなくて、今この辺にいる茶色いのは全部カルガモなんだって。かわいいよね」 「詳しいじゃん。さすが地元の人」 「まあね」  本当は前にお母さんが教えてくれたのをそのまま言っただけなんだけれど、それは言わないことにした。褒められて少しだけ気が大きくなったわたしは、この際だからといろいろ聞いてみることにした。 「東京ってさ、どんなところなの。ビルがいっぱい建ってて人がうじゃうじゃいるんでしょ?それに比べたらこの辺なんて田舎?」  んー、と顎に手を当てて考えながら、転校生は首を捻った。 「そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるかな。この辺りは、そんなに田舎って感じはしないけど、思ったより自然豊かだなって思った」 「たとえばどんな?」 「だいたいどの方角を見ても山がぐるっと囲ってるところとか。あと、一番思ったのが、この辺ってなんだかちょっと海苔みたいな匂いがするね。海が近いからかな」 「うそ、そんな匂いする?全然分かんないや」  あはは、と転校生は笑った。 「ずっとここに住んでる人からしたら、鼻が慣れちゃってて分かんないんじゃない?おれも最初に感じたときほどあんまり何も感じなくなってきたし。けどまあ、とにかく、けっこうおもしろいところだなって思ってるよ」  ここにきて、あれ、とわたしは不思議に思った。なんだ、普通に話せるじゃん。転校初日にきっぱりと拒絶の言葉を並べた転校生と、目の前で楽しそうに笑っている転校生が同じ人だとはとても思えなかった。どうしてあんなことを言ったのか、そもそもあれは本心なのか、聞きたいことは山ほどあったけれど、さすがに面と向かってそんなことを聞くには勇気が出なくて、迷っているうちに、遠くの空がゴロゴロと鳴り出した。気付けば灰色の分厚い雲が空を埋め尽くしていて、ぽつり、と雫が鼻の頭に落ちてきた。 「うわっ、雨!」  一粒、また一粒と雨が降り始めていた。つんと土の匂いがして、鳥たちがバサバサとどこかへ飛んでいくのが見えた。転校生はランドセルから折り畳み傘を出して、慌てた様子で頭上にさした。今日は降らないはずだったのに、天気予報の嘘つき、と思いながら、わたしはしまった、と頭を抱えた。傘がまだ見つかっていないのだ。 「どしたの?傘、持ってないとか?」 「うん、実はその、この辺でなくしちゃって。探してたんだけど見つかんないから、誰かにとられちゃったのかも。じゃ、わたし、もう帰るね」  ここから四丁目の家まで、走って帰っても十五分くらいはかかる。本格的に降り始める前に帰らなくちゃ。傘のことをどうやってお母さんに説明しようかと考えながら、転校生に背を向けたところで、待って、と声がかかった。振り向くと、転校生が自分の折り畳み傘をわたしに差し出していた。 「これ貸すよ」 「えっ、ちょっと、悪いって、」  いいから、と言って転校生は強引にわたしの手に傘をねじ込んだ。 「おれんち近所だし、走って帰れば大丈夫だから。じゃあね!」  止める間もなく、転校生はニカっと笑うと、そのままどこかへ走り去っていってしまった。ありがと、今度返すね、と背中に向かって言ってみたけれど、聞こえていたかどうかは分からない。わたしは半分呆気にとられながら、心の中がぱっと明るく照らされたような温かい気持ちになっていた。雨が強くなってきたので、わたしも借りたばかりの傘をさして帰ることにした。少し年季の入った、黒い折り畳み傘だった。

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